斎姫鬼譚
□斎姫の憂鬱
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彼女はふうっとため息を吐いた。
だだっ広い屋敷のなか。
自分専用にと与えられた部屋の寝台に座り、彼女は柳眉をひそめる。
どんな目に遭おうともかまわないと覚悟を決めてこの地にやって来たつもりだった。
だけどまさかこんなことになるとは。
彼女はとてつもなく手持ち無沙汰だった。
自らの意思で嫁いで来たからには下働きでもなんでもするつもりだったし、彼女はもともとそういった仕事が嫌いではない。
それなのに。
ふと思い立って床を水拭きしていると、お茶を運んで来た老女が慌てた様子で飛んで来て彼女から雑巾を取りあげた。
「奥様っ! なんということをなさっているのですか! ひとことお申し付けくだされば、そのようなことは私が致しますのに」
これだ。
嫁いで来たその日から、一事が万事このような調子だった。下にも置かぬ扱いを受けて彼女はとても落ち着かない。
「でも、わたしだけなにもしないでいるわけにはいかないもの。なにかお手伝いできることはないかしら」
彼女の申し出にとんでもないというふうに目を剥いて老女は彼女にいって聞かせた。
「奥様はお館様のご寵愛を一身に受けていらっしゃるだけでよろしいのです。どうか、そのお手を煩わせるようなことはすべて私どもにお任せくださいまし」
あきらかに自分よりも目上の相手にひざまずかれて彼女は心苦しい思いにとらわれる。このような扱いは彼女の望むところではない。
けれども何度説得してみても、老女やほかの者たちの彼女に対する態度は変わらないのだった。
仕方ない。これはもう直談判するしかない。
そう思った時、入口にその当人が姿を現した。
「なにを揉めておるのだ」
老女はそちらへ身体を向け床に頭を付けんばかりに平伏した。老女を庇うように彼女は立ちあがり、その男――彼女の夫に答えた。
「揉めているわけではありません。あの、わたしにもなにか仕事をいただけませんか」
物怖じしない彼女の言葉に男は目を細めて、控えた老女に「下がれ」と命じた。
老女が出て行きふたりきりになる。男が近付いて来る。
あきらかに人とは異なる神々しいまでの美貌を前に、彼女は我知らず息を殺して彼を見つめた。
その彼女の頬に男の手が触れる。冷たい感触。
「そなたはここにいるだけでよい。それでは不満か」
不満です、と正直に頷くことはできない。
彼女は自分の立場を理解している。この男は彼女を娶ることを条件として、彼女の故郷の村人たちに危害を加えないことを約束した。
人ではない、あやかしたちを統べる山の王。彼の機嫌を損ねるわけにはいかない。
彼女は黙ってうつむいた。
その彼女を抱き寄せて男は囁く。
「どうすればそなたは私に心を開いてくれる? 無理やりそなたを連れて来た私を怨んでいるだろうな。私は」
肩を抱かれたまま彼女は顔をあげる。
「怨んでなどいません。わたしは無理やり連れて来られたわけではありません。自分の意思でそう決めたのです」
きっぱりと告げる彼女に驚いたように男は目を瞠る。だがそれはほんの一瞬のことで、すぐにいつもの冷ややかな表情に戻った。
「それは村のためだろう? 彼らを守るためにそなたは我が身を犠牲にした」
「違います」
「強情だな。触れてもよいか」
もう触れているのに、と思いながらも彼女は頷いた。
「わたしはあなたの妻です。わざわざお断りいただかなくても、ご自由になさって結構です」
「その言葉、後悔はないな」
彼女の返事を待たずに男はその唇を塞いだ。不意のことに、彼女は目を閉じることも忘れて身を固くする。
神に仕える巫女として生きてきた彼女にとって、それは異性と触れあうはじめての行為だった。夫となったこの男は今までそういった意味で彼女に触れることはなかった。
彼は逃げられないように彼女の身体を抱きすくめていたが、唇に触れるその仕草はとても優しいものだった。
やがて彼女の唇を解放すると、男は彼女を見下ろして囁いた。
「私はそなたを離すつもりはない。だが必ずそなたを幸せにする。私のもとへ嫁いで来たことを後悔はさせない」
それは男からのはじめての求愛の言葉だった。
彼女は瞬きを繰り返して、それからおずおずと男の胸に顔を押しあてる。頬が熱い。
不安はある。自分たちとは異なる種族のもとへ嫁ぐのだ。平気なわけがない。だけど男は最初に約束を交わしたとおり、彼女に優しく、見知らぬ地にやって来た彼女が不自由を感じないよう常に気遣ってくれる。
大事にされている、と思う。
この男を愛せるかどうかはまだわからない。けれど、愛せるようになりたいと彼女は願う。
夫となった男の胸に寄り添い、小さな声で彼女は応える。
「はい。どうぞ、幾久しく」
そうしてふたりは末永く幸せに暮らしたのでした。
そんな昔話。