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□ビター or スイート?
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おれは食べるものにこだわりを持たない。身体にいいとか栄養バランスを考えてとか、そんなことは一切関係なく、ただ腹が膨れたらそれでいいと思っている。
そんなおれに野々宮は心底呆れたように宣言した。
「あんたの食事はおれが面倒を見ます」
♣♣♣
トイレに行く以外、机の前から離れず、ひたすら原稿用紙に向かっていた。最後の句点を打ち終えた瞬間、憑きものが落ちたように意識がクリアになる。ああ、戻ってきた。
ペンを置き、大きく伸びをして凝り固まった身体をほぐす。あちこちでバキバキと不穏な音がする。
とたんにぐうと腹が鳴る。
そういえば最後に食事をしたのはいつだったか。確か、野々宮が炒飯をつくってくれて、それを食べた。あれは昼間だった。カーテンを閉めきって冷房を効かせた不健康な部屋を見回したあと、ゆっくりと立ち上がり、カーテンを開ける。眩しい。真夏の日差しがアスファルトに照りつける。地面に落ちる影が濃い。夏の午後だ。
ということは、あれからまる一日、あるいはそれ以上の時間が経っていることになる。どうりで腹が減るはずだ。
机に戻り、原稿用紙の束を揃えてから部屋を出た。まっすぐに台所へ向かい、冷蔵庫を開ける。見事になにもない。いつもなら、野々宮がなにかしら補充してくれているはずだった。
この炎天下に、徹夜明けの身体で買いものに出かけるような気力はない。カップ麺でもあればいいが、インスタント食品を嫌う野々宮はそういった保存食を一切ストックさせてくれない。
つまり、今この家には食べものがなにもない。
腹が減った。風呂に入りたい。寝たい。
食欲が満たされないと悟ったおれはペットボトルに入ったスポーツ飲料を飲み干し、よろよろと浴室へ向かった。
湯舟いっぱいに満たした湯に浸かり、冷房にあたって冷えきった身体を解きほぐす。
脱稿直後は精神が高揚していて、いわゆるハイな状態になる。どんなに徹夜明けだろうがすぐには眠れない。だから、こうして熱い湯に身を沈めて意識を切り換えるのが、日常生活に戻るための儀式だった。
だが、よほど疲れていたのか、おれはそのまま眠ってしまったらしい。
頬に衝撃を受けて、その痛みでおれは意識を取り戻した。
「な、なん……ごふっ!」
思いきり湯を飲み込んであわてて湯舟に縋りつく。お蔭で一気に目が覚めた。盛大に噎せるおれに冷ややかな声が降ってくる。
「土左衛門になりたいんですかあんたは」
涙目で見上げると、鬼のようにきれいな顔を強張らせた野々宮が立っていた。このくそ暑いなか、まったく乱れなくスーツを身に纏っている。見ているほうが暑苦しい。
なんてことを思っていると、目眩がしておれはぐったりと湯舟のふちにくずおれる。なんだこれ。貧血か?
ぐいっと顔を上向かされ、唇から冷たい液体が注ぎ込まれる。それが呼び水になり、おれはひどく喉が渇いていることを自覚した。与えられる水分を貪欲に貪る。
ようやく人心地がついて、呼吸を整える。
野々宮が湯に手を突っ込んで栓を抜く。ぎょっとして叫んだ。
「お、お前、スーツっ」
腕まくりもせず湯に浸ければ当然濡れる。動揺するおれを無視していったん浴室から出ていったかと思うと、野々宮はバスタオルを手に戻ってきた。
「人の服を気にする余裕があったら自分のことを考えてくださいよ。あんた、おれが来なかったらあのまま脱水症状を起こして死ぬか溺死していましたよ。わかっているんですか」
ほとんど息継ぎもなく淡々と責められておれは返事に窮する。
野々宮はさらにいい立てる。
「原稿が上がったらまずおれに連絡をしてくださいとあれほどいっているでしょう。なんであんたはいつも携帯の電源を切って放置しているんですか。連絡してもちっとも出やしない。携帯の意味がない。そんなにおれが鬱陶しいですか」
なにやら話がおかしな方向になってきた。おれはあわてて口を挟む。
「ち、違う。おれはもともと電話とか苦手で……それは知ってるだろう。それに、お前、仕事中だろうと思って」
「そんな心配は無用だと何度もいっているでしょう。おれの仕事は時間の融通がきく。あんたと連絡がつかないほうがおれにとっては遥かにストレスで迷惑です」