BLSS

□SとM
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 待つことには慣れている。
 ぼくは電柱の陰に身を隠すようにして、向かい側に建つマンションの入口をひたすらじっと見張っていた。
 もう何時間が経つだろう。身体の芯まで冷えきって、小振りの箱を抱えた両手は感覚がない。
 今夜は帰ってこないのだろうか。不安と絶望が胸に広がっていく。
 彼は今ごろ、どこでなにをしているのか。
 ――――だれと。
 そう考えただけで嫉妬で気が狂いそうになる。彼がほかの人間と親しくすることを想像しただけで身体が震える。許せない。悶々としながら唇を噛みしめる。やっぱり会社で待ち伏せをするべきだった。あとをつけるべきだった。
 そう悔やんだとき、視界に待ち望んだ人影が映った。静まり返った夜道にコツコツと硬質な靴音が響く。どくん、と心臓が高鳴る。
 ――――彼だ。
 闇色のコートをまとった彼は、周囲に注意を払うことなくマンションの入口に向かうと、暗証番号を入力してエントランスへと入っていく。
 連れはいない。ひとりだ。
 そのことにほっとして息を吐く。そうしてぼくはかじかんだ足をゆっくりと踏み出す。ついさきほどまで彼が立っていた場所にたどりつくと、彼が触れたとおりの数字を押していく。その順番はとうに脳に刻み込まれている。音もなく開いた自動ドアをくぐり抜けた。エレベーターに乗り込み、彼の部屋がある階のボタンを押す。
 目的のドアのまえに立つと、来訪を告げるためのチャイムを鳴らす。一回。少し間をおいてもう一回。さらに。
 乱暴にドアが開く。
「うるさい」
 不機嫌そうな顔をした彼が現れる。その顔を見たとたん、安堵のためか熱いものが込みあげてくる。
「なんの用だ」
 冷ややかに問われ、あわてて口を開く。
「ケ、ケーキを」
 身体が冷えきって唇がうまく動かない。彼はぼくの全身をさっと眺めると、とりつく島もなく冷淡に告げた。
「おれは甘いものは好かん」
 知っている。彼は甘いものは好きではない。けれど、嫌いでもないはずだ。
 箱を抱きしめて彼を見あげる。感情のこもらないガラス玉のような瞳がぼくを見つめる。彼の瞳にぼくが映っている。そう思うと、凍えた身体の奥が爆ぜるように熱くなった。腰のあたりが痺れたように疼く。うつむいてもじもじと膝を擦りあわせるぼくのまえで、彼は鼻を鳴らして笑った。
「躾がなってないな」
 蔑むようにいうと、彼はケーキの入った箱を取りあげて短く命じた。
「入れ」
 あっさりと招き入れられて、ぼくは驚いて顔をあげる。彼はすでに背を向けて廊下の奥へと消えかけていた。あわてて玄関に足を踏み入れ「お邪魔します」とつぶやく。
 心臓がどくどくとうるさい。
 まさかこんなに簡単に部屋に入れてもらえるとは思わなかった。自分が歓迎されざる人間だという自覚はいちおうある。彼にとっては鬱陶しいことこのうえない、忌まわしいストーカー。それがぼくだ。
 彼はリビングのソファに座り、ぼくから受け取ったケーキの箱を開けている。三号の小さなケーキだ。
「なにをぼうっと突っ立っている。座れ」
 命じられて、ぼくはおそるおそる、けれど期待をこめて彼の足許に座る。正座をして。
「色気のない座りかたをするな」
 とたんに鋭い声が飛んでくる。びくっと身を竦めて、ぼくはおろおろと床に両手と両膝をつき、犬のような格好になる。こわごわと視線を向けると、彼は形のいい薄い唇に冷笑を浮かべ、ケーキに盛られた生クリームを指に掬いとった。それをぼくのまえに差し出す。
「ほら、これが欲しかったんだろう?」
 信じがたい思いで目を見開く。彼が、ぼくにケーキを食べさせてくれるなんて。しかもこんなに簡単に。
「どうした。いらんのか」
 ぼくは急いで首を振り、目のまえの指をぱくりとくわえた。
「だからおまえは、色気のない食べかたをするなというのに」
 呆れたようにいうと、ぼくの口から指を引き抜き、ふたたびクリームを掬いあげてぼくの唇に突きつける。指ごと噛みつきたい衝動を抑えて、舌先でクリームを舐める。
 甘い。とても。夢みたいに。
「美味いか?」
 爪に舌を這わせながらこくこくとうなずく。
 彼はクリームを掬ってはぼくの口に運ぶという動作を繰り返していたが、ついに飽きたのか、たんに面倒になったのか、素手でケーキを鷲掴みして、それをぼくに差し出した。さすがに舐めとるだけでは消化できないので、スポンジに噛みついた。その拍子に形が崩れてかけらが床に落ちた。
「こぼすな。きれいにしろ」
 彼は氷のような目でぼくを見下ろす。ぼくは肘を曲げて身を屈め、床に這いつくばり、自分がこぼしたケーキのかけらを口で拾って食べた。クリームを拭うために床を舐める。
「犬のようだな」
 頭上で彼が嘲笑う。


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