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□Dear my・・・
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玄関のドアを閉める微かな音が聞こえた。
うっすらと目を開ける。真っ暗でなにも見えない。そのままぼんやりしていると、音を立てないよう注意を払っているのだろう、彼がゆっくりと近付いてくる気配がした。部屋のドアが開いて、その隙間から明かりが差し込む。それはわずかなあいだだけで、すぐに暗闇が戻った。
ベッドの側に立ち、こちらを覗き込んでいるのだろう。ふわりと、煙草のにおいが鼻先を掠めた。
そっと髪を撫でる手。
とてもやさしい手付きだった。
「おかえりなさい」
つぶやくと、手が止まる。
「起こしたか」
「ううん」
小さく首を振って、彼の手に触れる。冷たい。
「おかえり」
くり返すと、彼が思い出したように返事をする。
「ただいま」
一緒に暮らすことを決めてから、ふたりのあいだにいくつかのルールをつくった。
おはよう。
いってきます。
いってらっしゃい。
ただいま。
おかえりなさい。
おやすみ。
いただきます。
ご馳走さま。
ごめんなさい。
ありがとう。
そういう挨拶を忘れないこと。たとえ喧嘩をしていても、ちゃんとお互いの目を見ていうこと。
もともとあまり口数が多くない彼は、あらたまってそういう挨拶をすることにためらいがあるらしい。長いあいだ、ひとり暮らしをしてきたということもあるのだろう。自分ひとりだと、おはようとかいってきますとか、声をかける相手がいない。近所のひととすれ違うことがあっても、彼の場合、無言でぺこりと会釈をするだけだ。
「彼、照れ屋さんなのねえ」と笑って受け入れてくれるご近所さんはいいひとだ。
無理をさせるつもりはない。だけど、大事なことだと思う。喧嘩をしたときには仲直りのきっかけにもなるし。そうそう喧嘩なんてしないけれど。
朝起きて、言葉を交わせる相手がいる。それってすごくしあわせなことだと思う。
はじめて彼を意識したのも、挨拶がきっかけだった。
*****
同じアパート、しかも隣の部屋に住んでいて、たびたび顔をあわせていたから、彼のことは知っていた。
なんかこわそうなひとだなと思っていた。背が高くて、いつも黒い服ばかり着ていて目付きが鋭い。挨拶をすると、ちょっと驚いた顔をしてまじまじとこちらを見つめる。それから睨むような目をして「ああ」とか「ん」とか、低い声でつぶやく。
無視はされないから、悪いひとではないのだろうとは思っていたけど。
そんなある日、ベランダに小さな黒猫がやってきた。その子はびくびくしながらも、興味津々なようすでこちらに近付いてきた。部屋は二階だったから、どこから迷い込んだのだろうと不思議に思いながらもそっと抱きあげた。あたたかい。逃げるそぶりはなかったから、人懐こい猫だなと思った。
「なー」
か細い声で鳴くのがかわいくて。
「おチビちゃん、どこから来たの」
胸に抱いて尋ねていると、隣の部屋であわてたようにガラス戸を開ける音がして、ベランダの境目から彼が顔を覗かせた。びっくりしていると、彼は気まずそうな表情になり「悪い」とぼそっとつぶやいた。
「あなたの猫、ですか」
「ああ」
このこわもてでぶっきらぼうな男が子猫を飼っている、という事実に驚いてしばし呆然としていると「すぐにそっちに行く。玄関開けてくれるか」といわれてこくりとうなずく。ベランダ越しに猫を手渡せばよかったんじゃないかと、あとになって思ったけれど、そのときは気付かなくて。
いわれるままに玄関のドアを開けると、やっぱりいつもどおり全身黒ずくめの彼の姿があった。子猫を返そうとしたけれど、服に爪を立ててしがみついていて離れない。困った。けどかわいい。頬が緩むのが自分でもわかる。
どうしようと彼を見あげると、目があった。
次の瞬間。
目の前が真っ暗になり、唇を塞がれた。