BLSS

□ロマネスク
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 汚れたものをきれいにする。それが僕の仕事だ。なにかを磨いたり、散らばったものをあるべき場所に片付けるのは、子どもの頃から好きだった。黙々と磨きあげれば、その成果はかならず目に見えるものとしてあらわれる。そういう、わかりやすい単純さが好きだった。
 僕は極度の赤面性で、人と接するのがものすごく苦手だ。緊張のあまり、しゃべると吃ってしまうし、思っていることをうまく言葉にできない。そんな自分が恥ずかしくて情けなくて、人前ではなるべく口を開かないように気をつけている。
 幸いに、というべきか、僕の仕事は皿洗いと清掃なので、挨拶くらいしか言葉を交わす必要はない。
 そういう意味でも、僕は今の仕事が好きだった。

  ♣♣♣ 

 耳がちぎれそうなほど底冷えのする、真冬の早朝。
 この街の冬は、長く、暗い。
 それでも、まだ薄暗いうちから人びとは活動をはじめる。この街の朝は早い。
 防寒というにはほど遠い、擦り切れた薄い上着の下で寒さに身を縮めながら、僕は石畳を一歩いっぽ踏みしめて歩いていた。そろそろ寿命が近い、さんざん履きふるした靴のなかで冷えきった足はすでに感覚がない。
 前方に人の気配を感じてふっと顔をあげると、少し先を、黒い外套をまとった長身の男が歩いていた。しっかりとした、暖かそうな外套だな、とぼんやり思っていると、石畳のうえに黒っぽいものがぽとりと落ちたのが見えた。あきらかに、その男が落としたものだ。男は気付いていないらしく、そのまま足早に進んでいく。
 おそるおそるそれを拾いあげて僕は息を呑んだ。財布だった。なかに収められた紙幣の厚みで、ぱんぱんに膨れている。たいへんだ。大事なものだろう。
 財布を手にしたまま、男を呼び止めようとしてためらう。声が、出ない。知らない人間に声をかける勇気がない。
 そのままおろおろと立ち尽くしていると、通りがかった年配の男が僕の手のなかの財布を見咎めていきなり怒鳴った。

「おいおまえっ、それをどうした」

 突然のできごとに驚いて僕はその場に凍りつく。小柄な男は、僕の全身をさっと眺めると、恐ろしい形相でふたたび怒鳴りつけた。

「この泥棒が! 来い!」

 容赦ない力で腕を掴まれ引きずられる。なにが起きているのかわからなくて僕は口をぱくぱくさせるしかない。
 騒ぎに気付いたあの男が振り返り、こちらへ近付いてくる。

「どうした?」

 落ち着いた、響きのいいバリトンで尋ねる。
 僕を捕まえた年配の男は相手の身なりを認めると、先ほどとは異なる媚びるような声で説明した。

「いや、旦那、この若造が人様の財布を盗みやがって」

 その言葉に僕は目を見開く。違う。盗んでなんかいない。
 バリトンの持ち主は僕の手のなかの財布を見て、驚いた表情になる。

「それは私の財布だ」

 とたんに、年配の男がやっぱりそうかといった顔で僕を罵る。

「手癖の悪いやつだ! 警察に突き出してやる、来い」

 僕は必死に首を振る。違う。盗んだわけじゃない。拾っただけだ。混乱と絶望で頭がぐちゃぐちゃになって涙があふれてくる。

「やめろ、離せ」

 無理やり引きずられていく僕を、背後から伸びてきた腕が引き寄せる。

「誤解だ。彼は私に接触していない。私が落とした財布を拾ってくれただけだろう」
「しかし旦那」
「彼がこの財布を手にした瞬間を見たのか?」

 逆に問い詰められて、僕の腕を掴んでいた男がたじろぐ。力が緩み、手が離れる。

「それは……」
「ならば誤解だ。これを」

 財布の持ち主は紙幣を数枚抜き出すと、それを男に差し出した。

「だ、旦那、いいんですかい」
「かまわない。彼に、謝罪を」
「そ、それじゃ遠慮なく……あんた、はやとちりしちまって悪かったな」

 そういうと、男は軽い足取りで去っていく。
 僕はぼろぼろと涙をこぼしながら目の前の男に財布を押しつけた。一刻も早く、この男の前から消えてしまいたかった。
 それなのに、男は財布を受け取ってくれない。両手で僕の身体をとらえたまま離してくれない。

「すまない。私のせいで、君につらい思いをさせてしまった。許してほしい」

 僕を抱き寄せるように背中に腕をまわして男が囁く。その言葉と仕草にびっくりして彼を見あげる。
 予想外に端整な顔が僕を見下ろしていた。鋭い眼差しと、きりりと引き締まった、意志の強そうな男らしい顔つき。思わず見惚れていると、男が優しい声で尋ねる。

「君は私の財布を拾ってくれた。そうだろう?」

 僕はこくこくとうなずく。盗ったわけじゃない。それを伝えるために、何度もうなずきながら男の胸に財布をぐいぐいと押しつけた。その僕の手を財布ごとてのひらに包み込み、男はゆっくりといった。

「ありがとう」

 僕はますますびっくりして、これ以上ないというくらいに目を瞠った。聞き間違いかと思った。男はもう一度繰り返す。

「ありがとう。君のお蔭で助かった」

 ありがとう、と。
 他人からその言葉をいわれるのは、たぶんはじめてのことだ。男はまっすぐに僕を見つめて、そういってくれた。
 さっきの男に怒鳴られてものすごい力で引きずられた恐怖が薄らいでいく。それと入れ違いに、なにか大きなものが胸の奥から込みあげてくる。



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