BLSS

□ロマネスク
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「……っふ、うっく、」

 どっとあふれ出す涙を抑えきれず、僕は顔を擦りながらみっともなく泣きじゃくった。男の手が、僕の頭を、背中を宥めるように撫でてくれる。
 しばらくして少し落ち着いてくると、ふいに視界が翳り、男の顔がすぐ目の前に迫ってきた。そして。
 冷たく濡れた頬に柔らかな唇が触れた。
 びっくりして涙が止まる。
 唇が、熱い舌先が、伝い落ちる雫を掬い、舐めとる。

「だ、だめ」

 はっと我に返り、顔を背ける。耳許に微かな吐息がこぼれた。

「すまない。君が、あまりにもきれいだったから、つい」

 きれい? 僕、が?

「ぼ、僕、ちがう、汚れ、てる」

 ぶんぶんとかぶりを振っていうと、肌触りのいい手袋に包まれた男の手が僕の頬を撫でる。

「汚れている? 君が? まさか。君は、とてもきれいだ」

 さんざん泣いてぐしゃぐしゃになった顔が、さらに真っ赤になるのがわかった。今度こそ、男の手に財布を押しつけて、その腕から逃れる。

「待ってくれ。すまなかった。失礼を許してほしい」

 ぐいっと肩を掴まれ引き戻される。男の真剣な表情が、怖い。

「は、はな、して」

 震える声で訴えると、男ははっとした顔になり、僕を掴んだ力が緩む。

「離しても、逃げないでほしい」

 こくりとうなずくと、男の手が離れる。白い息を吐きながらじりじりと後ずさる僕に、男が眉をひそめる。逃げているわけじゃない。いいわけをするように、僕はおどおどと説明する。

「ぼ、僕、仕事、いかないと」
「仕事? こんな時間からか?」

 怪訝そうな声で男が聞き返す。首を振って肯定する僕に男が尋ねた。

「どんな仕事をしているんだ」
「お、お皿、洗う、と、掃除、です」
「仕事は、何時に終わる」
「え」
「財布を拾ってくれたお礼がしたい。一緒に食事をしよう」

 思いがけない誘いに、しばしのあいだ言葉をうしなう。それからあわてて頭を振った。

「お、お礼、だいじょうぶ。い、いらない、です。僕、仕事、夜、おそい、から」

 男の眉間に皺が刻まれる。

「私と食事をするのは、いやか」
「えっ、ち、ちがう、いや、とか、そう、じゃ」
「ならばかまわないだろう。休みはいつだ」
「え、えっと……あ、あさって」
「では、あさっての夕刻、迎えに行く。家はこの辺りか」
「え、あ、あの」

 男は不躾ではないけれど強引だった。
 結局、家の場所を聞き出されて、あさっての夕方に会う約束をさせられてしまった。

「君の名を教えてくれないか」
「ユ、ユエ、です」

 僕が答えると、男は眉間の皺をほどいて目を細めた。

「ユエ、か。きれいな名だ。君に似合っている」
「――――っ、」
「私のことは――ライ、と呼んでくれ」
「ラ、イ?」
「そう」

 小さく頷いて、男――ライはつかのま沈黙する。そのあいだ、彼はじっと僕を見つめていた。やがて、ふっと口許を緩めると、優しい目をして囁いた。

「では、またあさってに会おう。ユエ」

  ♣♣♣

 そうして、泣き腫らした顔で仕事場に行ったけれど、誰にも見咎められることはなかった。誰も僕のことなど気にしていないし、そもそも、伸び放題の前髪に覆われていて、よほど注意深く観察でもしないかぎり、僕の顔は見えないはずだ。
 それなのに。
 あの男――ライは、どうしてあんなことをいったのだろう。僕のことを、きれいだなんて。本気ではないのはもちろんわかっている。僕は醜い。汚い。なるべく人前に姿を見せないように、目立たないように、おとなしくしていること。
 それが、この職場で僕に課せられた仕事のひとつでもある。
 夜のあいだに使われた食器類を、ひたすら黙々と洗い続ける。水はとても冷たくて手が痺れるほどだけど、こうして仕事を与えられて、ちゃんとお金ももらえるのだからありがたいと思う。
 お日さまが空に昇り、街がすっかり明るくなった頃。
 各部屋で夜を過ごしたお客さまを送り出すため、姐さんたちが起き出してくる。このあいだ、僕は絶対にお客さまの前に姿を見せてはいけない。もの心がついた頃から、それだけはとくに厳しくいいつけられていた。
 菖蒲(あやめ)姐さんから。
 その菖蒲姐さんが、お客さまを送り出したあと、僕のいる洗い場にやってきた。
 本来なら、菖蒲姐さんのような人がここに足を踏み入れることはない、らしい。菖蒲姐さんは、この娼館一の、いや、この街随一を誇る娼妓なのだ。その菖蒲姐さんのお蔭で、僕はこうして仕事をもらえて、なんとか自分で生活できている。

「おはよう、ユエ」

 艶やかな黒髪を流した菖蒲姐さんが、欠伸を噛み殺しながら近付いてくる。僕は手を止めて姐さんに向き直る。

「お、おはよう、ございます、菖蒲姐さん」

 白い手が僕の前髪を掻きあげて顔を覗き込む。

「ユエ、あんた、泣いたの?」

 とたんに、のんびりしていた姐さんの顔つきが変わる。

「ちっ、ちが、ちが、う」

 動揺するあまり吃りがひどくなる。かああっと顔が赤くなり、目尻に涙が滲む。

「いったいなにがあったの。話してごらん」

 菖蒲姐さんの目をごまかすことはできない。僕は正直に、今朝のできごとを話した。ライに食事に誘われたことだけは除いて。
 一部始終を聞き終えた姐さんは、それはもう怒り心頭といった様子で吐き捨てた。

「なんなのそのくそジジイは! ユエが人のものを盗むわけないじゃないの! このうすらトンカチがっ」

 姐さんは、華のような美貌に似合わず口が悪い。



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