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□ロマネスク2
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今日は、ライが来る日だ。
嬉しくて、でもすごく緊張して、昨夜はほとんど眠れなかった。
僕は寝るのを諦めて布団から抜け出すと、姐さんやお客様たちが寝静まってひっそりとした館内を歩き、洗い場へ向かう。思ったとおり、まだ誰もいない。
冷たい水に浸したままの大量の食器を、音を立てないようにそっと洗いはじめる。氷のような水に指がじんじんするけれど、ひさしぶりに感じるその冷たさにすごくほっとした。
しばらく無心で手を動かしていると、ふいに背後から鋭い声が飛んできた。
「なにしてるの」
びくっとして、思わず手に持っていたお皿をとり落としてしまう。派手な音がして、僕の目の前でお皿が割れた。
「あっ」
あわてて手を伸ばして破片を拾いあげたとき、指先にぴりっと痛みが走った。みるみるうちに赤い血があふれてぷっくりと膨れあがる。
ぐいっと手首を掴まれてびっくりして顔をあげると、チェンさんが目を吊りあげて僕を睨んだ。
「なんてこと」
「ごっ、ごめ、なさ」
お皿を割ったことを怒られているのだと思って、僕は恐怖で身がすくんだ。硬直したままの僕の手を引き寄せると、チェンさんは血がにじんだ指先を口に含んで舐めた。
「え、え……」
てっきり怒鳴りつけられるのだと思っていたので、予想外のできごとに驚いて、僕はただ口をぱくぱくさせてチェンさんを見あげるばかりだった。
チェンさんは険のある目付きで僕を睨んだまま、舌先で傷口をえぐるように舐める。
チェンさんは、この娼館の主だ。
絶対に笑わない無表情。
人形のような中性的な顔立ちに、長い黒髪をひとつに束ねて胸に流している。男の人とは思えないくらい、ものすごくきれいな人だけど、同じきれいでも、菖蒲姐さんの華やかさとはあきらかに異なる。
近寄りがたい、冷ややかな美貌。
普段から女の人みたいな柔らかなしゃべりかたをする人だけど、性格は男らしくて、たとえ相手がお客様でも、道理に外れた要求をしてきたり騒ぎを起こす人は容赦なく叩き出す。
それは雇っている人間に対しても同様で、さぼったり手を抜いたりする人は絶対に許さない。
そんなのはあたりまえのことだけど、怒ったときのチェンさんがあまりに無表情で腕っぷしも強いので、みんな、チェンさんを怒らせることを恐れている。
そのチェンさんに怒られる。
僕は頭が真っ白になって、小刻みにぶるぶる震えながらじっとうつむいていた。
「どうして、フェイのいいつけを破ったの」
僕の指から口を離してチェンさんが尋ねる。びくっと首をすくめる僕をさらに問い詰める。
「あんたはもう、皿洗いや掃除をしなくていい。しちゃいけない。そういわれたでしょう?」
僕は下を向いたままこくりとうなずく。
「それなのにどうして」
「ご、ごめん、なさい」
「ユエ、私は謝ってほしいわけじゃない。どうしてそんなことをしたのか、理由を聞いているの」
チェンさんは淡々とした声でそう尋ねる。怖くて、じわっと涙があふれてきた。僕は掴まれていないほうの手で目をこすりながら、途切れとぎれに答えた。
「きょ、今日は、ラ、ライが来る、から、ま、待ってたら、眠れ、なくって」
うぐ、としゃくりあげる僕の上で、チェンさんがため息をつくのが聞こえた。
「フェイを待ちきれなくて、皿洗いをして気を紛らわせようとしたの?」
こくこくとうなずくと、呆れたようにふたたび息を吐く気配がした。
「馬鹿ね。でも駄目よ。あんたにこんなことさせたら私がフェイに叱られるわ。あとで、よく眠れるお茶を持っていってあげるから、部屋に戻っておとなしくしていなさい。わかった?」
そういってチェンさんは濡れたままの僕の手を乾いた布で拭う。
「チ、チェンさん、僕のこと、お、怒る?」
びくびくしながら尋ねると、チェンさんは静かな声で答えた。
「次にまたこんなことをしたら、そのときは怒るわよ。ユエ、あんたはもうフェイのものなの。今の私は、フェイからあんたを預かっているだけ。あんたは大事なお客様なの。だから、あんたになにかあったら私が怒られるの。お願いだから、おとなしくしていてちょうだい」
戸惑いながらも、僕はうなずくしかなかった。