BLSS
□影のない男
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毎朝同じ時間に起きて仕事に出かけ、夕方になると仕事を終えて家に帰る。
判で押したような毎日の繰り返し。
ときどき退屈だなと思うことはあるが、不満というほどではなく。小説や映画の主人公みたいな波瀾万丈な人生なんか望んでいないし、他人から見れば取るに足らないようなささやかな幸せを楽しみに歳を重ねていく、そういう一生を送るのだと思っていた。
それで充分だと思っていた、のに。
♣♣♣
そんなある日。
いつもと同じ、出勤のために駅へ向かう道すがら。信号待ちのあいだにふと、田舎の祖母がいっていたことを思い出した。
『人がようけ集まるところには、人じゃないもんもわんさか寄ってくる。もし、影のないもんを見付けても、絶対に騒いじゃあいけん。目をあわしたらいけん。なんも見んかったふりして、全部忘れるんよ。絶対に、相手にそれを気付かれたらいけん』
おれはばあちゃんっ子だったから、休みなく立ち働く祖母に鬱陶しいくらいにまとわりついていた。そんなおれを邪険にすることなく、祖母は手を動かしながらいろいろな話を聞かせてくれた。
そのうちのひとつがこの話で。
祖母は普段と同じ淡々とした声で話していたから、べつにおれを怖がらせようとしたわけではないと思う。でも、なぜか、その話が恐ろしくてたまらなくて。祖母の割烹着の裾をぎゅっと握りしめて、半泣きで聞き返した。
『き……気付かれたら?』
充分すぎるほどの間をおいて祖母は答えた。
『食べられてしまうんよ』
そんなむかしの記憶を、なんで今思い出したかというと。
いたのだ。影のない、男が。
道路の向こう側、信号待ちの人垣のいちばん手前、おれの真向かいに。
朝っぱらから容赦なく照りつける太陽があまりに眩しくて痛くて、いつもより視線が下がっていたのが災いした。なんの気なしに向かいに目をやって、男に気付いた。
このくそ暑いなか、真っ黒の長袖シャツを着ているだけでも充分異様なのに、全身黒づくめときた。それで、どんなやつなんだと頭から爪先まで眺めて――ふいに背筋がぞっとした。
影が、ない。
太陽は東、つまり男のいる方向から昇っている。だから影はこちら側、横断歩道の上に伸びるはずだ。それなのに。あきらかに、その男の足許に影はない。周囲の人間にはもちろん影があるのに。
人波が動き出す。信号が変わったのだ。凍りついたように動けないおれは後ろから来る人たちにとっては邪魔な障害物で。ぶつかったり舌打ちされて、それでも金縛りにあったように身じろぎできない。
男が、近付いてくる。
…………目、を。
目をあわしたらだめだ、と思うのに。視線を逸らすことができない。男は長めの前髪で目許が隠されていて、幸い、目があうことはない。が。
逆光ではっきりと見えなかった男の表情が、接近するごとに見えてくる。艶やかな黒髪に覆われた、病的なまでに白い顔。
その、唇が。
くっきりと笑みを形作っている。
――――怖い、
恐怖を感じた。
男が迫ってくる。なんとなく、目の前で立ち止まるものと思っていたのに、そのまますぐ傍を通り過ぎた。禍々しいものが視界から消えたとたん、全身からどっと汗が吹き出す。
おれの思い過ごしだ。男が笑っていたのは、おれがみっともなく立ちすくんでいたからだろう。他意はないに違いない。
金縛りがとけてほっと息を吐いた瞬間。
「見ぃつけた」
すぐ後ろに気配がして。
楽しそうな声が耳元で囁いた。
悲鳴すら出ない。全身から血の気がひいて、指先が冷たくなるのを感じた。暑くてたまらないはずなのに、身体が小刻みに震える。おれの首筋に顔を埋めて、背後の誰かがくんくんと匂いを嗅ぐ。汗くさいに決まっているのに、うっとりしたような声がありえない台詞をつぶやいた。
「ああ、いい匂いだ。たまらんな」
首筋をべろりと舐められる。冷たさとその感触にぞわっと皮膚が粟立つ。
「うまそうだ」
低く囁く声に、おれは恐怖のあまり歯の根があわなくなる。
――――喰われる。
そう、思った。