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□キオク、ソウシツ。
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最初に見たのは、白い、天井。
ああ、病院か。そう思った。なんだかやけに頭がぼうっとする。おまけに手が、痛い。一度それを意識すると、痛みはどんどんひどくなっていく。右の手がずきずきと痛む。
「大和(やまと)?」
目の前に、若い男の顔が現れた。鼻筋の通った、細おもての端整な顔立ち。ぱっと見、優男風だが、よく見ると目つきに険がある。気難しそうな男だな、とぼんやりと眺めていると、男の手がおれの顔にそっと触れてきた。冷たい手だった。
「大和……よかった……」
おれを覗き込む男の目がじわりと潤む。泣くのかと思ったが、男はまばたきすら忘れたかのようにじっとおれを凝視している。あまりに切実な眼差しに、視線を逸らすことができない。
「…………だ、れ?」
掠れた声で尋ねると、男の目が見開かれる。
「大和?」
やまと、と。震える声で男が繰り返す。
やまとって、なに?
あんたは誰?
目でそう問いかけるおれを、男は驚愕の表情で見つめる。ごくり、と喉仏が上下して、わななく唇から掠れたつぶやきがこぼれ落ちる。
「覚えて、いないのか」
おれは記憶をうしなっていた。
♣♣♣
男の名は神代哲哉というらしい。その神代がいうには、おれは自殺しようとしたらしく、それはもう勢いよく自分の手首を切ったそうで出血多量で病院に運び込まれた。そのときにはすでに意識がなく、かなり危険な状態だったという。
そしてそのまま三日間、生死の境をさまよい続けた。自分のことなのに、らしい、とか、そうだ、といったあいまいな表現になるのは仕方ない。なにも覚えていないのだ。自殺しようとしたことはもちろん、自分の名前もなにもかも。
この神代という男が、おれの恋人だったということも。
♣♣♣
それからまもなくしておれは退院した。
右の手首にはおおげさなほど包帯が巻かれている。実際にはおおげさどころか、事実おおごとなのだろう。
おれの右手は機能をうしなっていた。切ったときに神経を傷付けたのか、指を動かそうとしてもぴくりともしない。辛抱強くリハビリを続けていけば少しは回復するのかもしれないが、べつにかまわないと思った。
まるでひとごとのように、動かない自分の手を見る。覚えていないとはいえ、自分でやらかしたことなのだから自業自得だ。本来ならば、こうして生きていることさえなかったはずの命。助かったことが自分にとっていいことなのかどうかはわからないが、少なくとも、ずっと傍につきっきりでかいがいしく世話を焼いてくれる神代を見ていると、もしおれがあのまま死んでいたら神代は悲しんだだろうし、おそらくはそれを承知で死を望んだ自分を思うと、我がことながら苛立ちを覚える。
右腕をうしなったのはその報いだ。
「ここが、僕たちが住んでいる部屋だよ」
そういってうながされたのは瀟洒なマンションのロビーで。オートセキュリティのロックを解除して自動ドアを開ける神代の背中を呆然と眺める。
「大和?」
荷物を提げた神代が振り向いておれを呼ぶ。
「あんた、その、お金持ちなの?」
おれの台詞に神代は困ったように苦笑を浮かべた。
「どうかな」
そういえば病室も完全な個室だった。個室というのは当然、入院費とはべつに部屋代がかかる。
そうなのだ。
おれはそういう、いわゆる一般的な知識はちゃんと覚えている。箸の使いかたも覚えているし、右手が不自由という以外に日常生活に支障はない。
ただ、自分に関することだけをすっぽりと忘れてしまっている。自分の名前も性格も、家族や友人、恋人のこともなにもかも。