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□花のもとにて
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「先生、花を見に行きませんか」

 夕暮れ時、いつものごとくふらりと訪ねてきた陵(みささぎ)が、縁側から私を誘った。
 私は座敷で足を投げ出した格好でだらしなく座り、ぼんやりと庭を眺めていたところだ。視界を遮るように現れた男を見あげて、ぶっきらぼうにいう。

「花? 花ならそこにある」

 庭のほうへ顎をしゃくってみせると、陵は素直にそちらを見る。庭では、赤い椿が今を盛りと咲き誇っている。花ひらいたまま地に落ちたいくつもの赤い塊が木の周りを囲み、彩る。
 陵は私へと視線を戻すと、涼やかな顔で微笑した。

「確かに、椿も風情がありますが」

 わかっているでしょう、とでもいうようにその目が語りかける。じろりと睨む私に笑みを浮かべたまま彼は続けた。

「明日は春の嵐になるようです。満開の花も散ってしまうでしょう。今年の花は今日が見納めです」

 見納め、という言葉にぴくりと反応した私を陵が見逃すはずがない。舌打ちしたい気分だった。今の私は不機嫌をあらわに、ひどく人相の悪い顔つきになっていることだろう。おまけに無精ひげも伸び放題で、とても人前に出られるようななりではない。よくこんな男を花見に誘う気になるものだと、呆れ半分に胡乱な目を向けると。
 陵は、変わらずに涼やかな顔をして私を見ていた。
 結局、私は重い腰をあげてひさかたぶりに外へ出た。
 ぼさぼさの髪に無精ひげ。知人にでも会おうものなら体裁が悪いことこのうえないが、今さら取り繕うほどの矜持もない。
 それに、陵へのあてつけもあった。
 端整な容姿をした、見るからに良家の子息といったこの男が、私のような怪しげな風体の者と連れ立って歩いていれば、嫌でも人目をひく。奇異な目を向けられてうんざりすればいい。私なんかに関わるべきではなかったと思い知ればいい。
 そう思いつつも、おそらくそんな程度ではこの男は懲りることはない、という確信めいたものもあり、複雑な思いに私はますます眉間の皺を深くした。
 陵は無言で私の隣を歩く。
 どこへ行くともいわないが、向かう先は見当がつく。
 私の家から程近いところに山があり、このあたりの人間なら誰もが一度は歩いたことがあるであろう遊歩道が設けられている。その道沿いに桜の木が植えられており、この時期には一斉に花を咲かせてにわかに賑やかになる。日が暮れると夜桜見物のために提灯がともされ、満開の花の下で大勢の酔客がかしましく騒ぐ。そこへ行くつもりなのだろうと予想したとおり、目の前には山が迫り、遊歩道の入口が見えてきた。
 山といっても、道は緩やかな勾配で上へと向かうため、山歩きのような準備をせずとも、気が向いたときにそのままふらりと歩けるような気楽なものだ。
 私は部屋着の上に薄い外套をひっかけただけの軽装で、足許もくたびれて底の擦りきれた靴、隣を歩く陵に至っては、会社帰りの背広に仕立てのいい外套を重ね、足の先まで手入れの行き届いた、山歩きにはまるで向かない格好だ。その格好で、すっと背筋を伸ばして坂道をのぼりはじめる。私とさほど背丈は違わないはずだが、猫背で姿勢の悪い私は、彼と並ぶと少し見あげる形になる。
 春分を過ぎてずいぶん日が長くなってきたとはいえ、太陽が西に沈むとあたりは急速に暗くなる。提灯のあかりで足許に不安はないが、私の足取りは少しずつ重くなっていく。隣に並んでいた陵から遅れて、彼の背中を見ながらあとを追うようになる。
 陵が足を止めて振り返る。

「先生、大丈夫ですか」

 ほんの数分、坂道を歩いただけなのに、私はすでに息があがっていた。情けないが、日頃からろくに出歩かないのだから体力は衰えていく一方だ。
 私は今年で三十になる。
 世のなかではこれから働き盛りといったところだろうが、私はもうすっかり余生を送るような気分で残りの人生を生きているだけだ。

「大丈夫だ」

 呻くようにつぶやいて顔をあげる。まもなく夜に包まれる濃紺の空には、ひときわあかるく輝く宵の明星が見えた。



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