子羊は夜の底で夢を見る

□第三夜
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 唯はアパートの一室を借りてひとり暮らしをしている。
 築年数は古いが、トイレと浴室がそれぞれ独立していて、小さなベランダもあるので気に入っている。ものを所有するのが好きではないため家具も少なく、部屋の広さはじゅうぶんだった。
 冬場はずっと出したままの炬燵にあたり、唯と薫はチーズケーキを食べている。帰宅してとりあえず入浴を済ませたため、日付はすでに変わっていた。
 真夜中のチーズケーキ。健康にはよくなさそうだがしかたない。唯の好物なのだ。
「酒飲んだあとにケーキなんかよく食えるよな」
 呆れたように薫がいう。そういう彼はまったくの下戸でアルコールはいっさい受け付けない。その代わりというか、唯と同じく甘いものに目がない。
「少ししか飲んでないもん。お風呂にだって入れるくらいだし」
 唯はミルクティを啜る。
 部屋には、ごく小さな音量でラジオの深夜放送が流れている。水沢家に住んでいた当時から、ラジオは欠かせない存在だった。唯はテレビが苦手だ。視力があまりよくないせいかもしれない。疲れてしまうのだ。
「伯母さんが心配していたよ。たまには家に帰ってあげたらいいのに」
 ふと思い出して唯はいう。薫は表情を変えずに唯を見た。
「おれをいくつだと思ってるんだ」
「えっと、二十九? でも、歳は関係ないと思うよ」
「で? ほかにもなにかいってただろう」
 唯は上目遣いに彼を窺う。
「あててやろうか」
 視線を外して薫はいう。
「まったく、三十にもなろうってのにいったいなにをやってんだかあの馬鹿息子は。まさか、お天道さまの下を歩けなくなるようなことをしているとは思わないけど、いいかげん、しっかりした娘さんのひとりでも口説いて、腰を落ち着けてほしいもんだね。こんなところだろ」
 目と口をまるく開けて唯は感心する。
「すごーい。なんでわかるの」
「そのくらいはいやでもわかる」
「あ、だから帰りたくないんだ」
 薫は片方の眉をあげる。
「今ごろ気付いたのか」
「でも、馬鹿とはいってなかったけど」
「じゃあ、放蕩息子だろ」
 その通りだったので、驚くよりおかしくて唯は笑った。
 十四歳のときに唯は水沢家の戸籍に入った。母親が病に倒れて他界したためだ。
 唯の母親は、若いころに失踪同然に姿を消して以来、実家とはまったく音信不通になっていたのだという。そのことを、伯父から聞かされてはじめて唯は知った。母親はとても口が堅い人だった。実家の話はもちろんのこと、唯の父親についてもまったく教えてはくれなかった。そのまま逝ってしまったのだ。
 伯父夫妻は、十数年ぶりの妹からの連絡に驚いた。しかも、その内容がただごとではない。
 自分はもうすぐ死んでしまうので、ひとり残される娘を保護してやってほしい。それは遺言だった。
 そしてそのとおり、彼らは唯を保護し、なに不自由なく育ててくれた。
 自分はとても恵まれている、と唯は思う。母親を失ったけれど、新しい家族を得ることができた。もし水沢家のひとたちが唯を保護してくれなかったら、今とは違う人生を送っていただろうと思う。
 唯が彼らのもとに身を寄せることになったとき、すでに薫は独立しており、一緒に暮らしたことはなかった。
 だが、薫はなにかと唯を気にかけてくれ、不定期ではあったが連絡を取り合っていた。
 家を出ようと思う、と唯が相談を持ちかけたとき、薫はさほど驚いたようすもなく、ただひとこと、理由を尋ねた。うまく説明できる自信はなかった。唯自身、その動機をはっきりと理解しているわけではなかったのだ。ただ、高校を卒業して、これ以上、彼らに甘えるわけにはいかないと思った。それがいちばんの理由ではある。
 薫は納得しなかった。
「甘えるどころか、そういう考えが出てくる時点で、おまえは少しも家族に気を許していない」
 そういわれて反論できなかった。それでも、唯の意志が固いと知ると、唯の独立に反対するに違いない両親を説得するため、彼ははたらきかけてくれた。
 唯は、薫のことをほとんどなにも知らない。
 どこに住んでいてなにを生業として暮らしているのか。そういった基本的な情報をまったく持っていない。
 興味がないといえば嘘になる。唯が尋ねれば、だいたいのことは教えてくれるだろうとは思う。
 でも、そうすることに抵抗を感じるのだ。
 実の母親や父親についても同様だった。知りたいとは思ったが、母親にそれを尋ねるのは憚られた。たとえ肉親でも、好奇心だけで踏み込んではならない領域がある。
 小さなころから、そういうことに唯は慎重だった。慎重すぎて、機を逸するのだ。
 母親は禁忌の領域を内に秘めていた。薫にも、同じような気配が感じられた。



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