子羊は夜の底で夢を見る

□第十夜
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 薫のいうとおりだった。明日香は黙って唇を噛む。そんな明日香に容赦なく彼はつづける。
「羽野明日香が死んだことを隠すために、あんたは明日香になりすましているのか?」
「違う」
 明日香は即座に否定する。
「唯は、ほんものの羽野明日香には会ったことがない。彼女が知っている明日香は全部、私」
 さすがに薫は驚いたようだ。
「最初から、か?」
 うなずく。
「それで、あんたはどうするつもりなんだ。そんな格好をしていても、あんたは男だ。その気になれば欲望のままに唯を傷付けることもできる。唯はあんたを少しも疑っていない。自分が木島のようにならないといい切れるか?」
 木島のように。自分の欲望のために唯を殺そうとした彼。自分は彼とは違うのか。男として唯を傷付けることはなくても、真実を知った時点でおそらく彼女は傷付くだろう。
 そういう意味では、明日香はいつかきっと唯を悲しませる。それでも彼女のそばにいたいと願うのは、明日香のエゴでしかない。
「答えられないのか」
 この瞬間、薫は明日香を獲物と定めた。
 はずだった。
「明日香?」
 その声に、殺気をまとった水沢薫はふっと力を緩めて背後に意識を向ける。明日香は息を呑んで彼の背後の襖を見つめた。
「明日香、どこ?」
 唯の声だ。
 今の話を聞かれていた?
 立ち尽くす明日香を尻目に薫は細く襖を開ける。
「唯、どうした」
「明日香は無事なの? 助けてくれたの。木島くんから」
 うわごとのように、小さく頼りない調子で唯がいうのが聞こえた。少し混乱しているのか、まだ半分眠ったままなのか。
 明日香が無事なのは見ていたはずだ。
「大丈夫だ。ここにいる」
 ぶっきらぼうな口調で薫は答える。不本意だという意思がありありとわかるいいかただったが、唯は安心したようにひとこと
「よかった」
 とつぶやくと、そのまま静かになった。また眠ったのだろう。明日香はほっと息を吐く。聞かれてはいなかったらしい。
 薫はそのまま唯のようすを窺っていたが、襖を閉めると、おもむろに明日香を振り向いた。
「騙すつもりなら、最後までその嘘を貫き通せ。中途半端な真似はするな。わかったな」
「え?」
 予想外の言葉に驚いて明日香は目を見開く。薫はいまいましげに舌打ちして明日香を睨めつける。視線だけで相手の命を奪えそうな目付きだった。
「勘違いするな。あんたを無条件に認めたわけじゃない。だが、今の唯にはあんたが必要らしい。今まで友だちらしい友だちもろくにいなかったのに、なんでよりによってあんたみたいな面倒なやつにひっかかるんだ」
 そう悪態をつきながらも彼は、今はまだ、唯のために明日香の存在を黙認すると告げている。
 この男は、唯のために明日香を排除しようとし、今度は唯のために明日香を生かそうとする。献身といっても過言ではないような、その振るまいはいったいなんなのだ。
「唯は、あなたのなに?」
「妹だ。それ以外になにが聞きたい?」
 冷ややかな声。
 明日香にも姉がいたからわからなくもない。きょうだいは大切だ。姉のためなら、明日香もたいていのことはできるし、姉も自分のためには力を惜しまないだろうと思える。
 だけど。
 水沢薫の唯に対する過保護ぶりは、家族へのそれというより、むしろ。
 はっとしたときにはすでに目のまえに水沢薫の姿があった。野生の獣のように音もなく素早く近付いてきた彼は、呆然と立ち尽くしたままの明日香の首を難なく掴むと、指先に力を込めた。喉を圧迫されて明日香は顔をしかめる。
「余計な詮索は無用だ。おれは唯のようにやさしくはない」
 喘ぐように息をして明日香は小さくうなずく。薫は無表情のまま、ゆっくりと指を離した。
 木島を排除した手で唯の髪を撫でるように、彼はきっと、明日香を葬り去ったその手で、同じように唯を慈しむのだろう。
 これから先もずっと。


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