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□冬の旅
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 凛とした空気のなか、まるい月が晧々と夜を照らしている。カーテンを引いていない窓から月明りが差しこみ、室内はほのかに明るい。
 眠れない。
 元来、寝付きはいいほうだけれど、ときどきへんに目が冴えて、眠りの波に身をゆだねそこなうことがある。今夜のように。
 わたしは眠るのを諦めて、音を立てないように注意を払いながら布団を抜けだす。上着を羽織り、すっかり冷えてしまった炬燵の電源を入れてあたたまるのを待つ。
 月の光にぼんやりと浮かびあがる時計の針は、二時半を少し回ったところだ。夜明けにはまだ遠い。とても静かだ。

 彼は規則的な寝息を立てて眠っている。
 いまだに、自分以外の人間がこの部屋にいるということに少なからず戸惑う。彼と知り合ってから今日にいたるまで、わたしはずっと戸惑い続けているように思う。

 彼とはじめて出会った時のことは、今も鮮明に覚えている。
 幼馴染みの有架に連れられていったお店で、彼はものすごい仏頂面をして黙々とお酒を作っていた。

「すごい無愛想だけど人は好いから」

 そう紹介した有架を一瞥して、彼はまっすぐにわたしを見た。そして小さく会釈をする。つられてわたしも軽く頭を下げた。
 有架は社交的な性格で、とにかくやたらと顔が広い。知り合いの友人の知人、みたいな関係の人ともすぐに親しくなるらしく、ときどきわたしに紹介してくれる。
 だから、彼もそういう知り合いなのだろうと思った。
 わたしは、アルコールを楽しむための場所、というものにまったく縁がない。お酒はきらいではないけれど、わざわざ外へ飲みにいくほど好きではないし、そもそも外出自体をあまりしない。
 なので、酒場で働く男の人はもの珍しく思えた。非日常の世界の住人といっていい。
 それで、不躾に感じられるような視線を向けていたのかもしれない。
 彼は鋭くわたしを睨み返した。
 身が竦むような、凄みのある眼差しだった。そういう眼を持つ人間を前にするのははじめてで、わたしはにわかに緊張した。
 感情がおもてに表れにくいたちなので、平静を装うことは難しくない。けれど内心穏やかではいられなくて、お酒の味もほとんどわからなかった。

 それからも何度か有架に連れられて、わたしはその店を訪れた。
 そのたびに彼はやはり不機嫌そうな顔をして、黙々と手を動かしていた。
 彼は姿勢がいい。
 だから立ち姿が様になる。ついそちらを見てしまう。すると目が合う。わたしは視線のやり場に困って、うつむいてカウンターの木目をなぞることにした。
 ふいに視界に小さな箱が現れた。
 驚いて顔を上げると、カウンター越しに彼がこちらを見ている。箱から指を離しながら彼は尋ねた。

「甘いものは平気か」

 はじめて声を聞いた。
 呆然としたまま、わたしはこくりとうなずく。有架は席を離れていた。

「チョコレートだ」

 そういってわたしの目を見る。
 濁りのない眼差し。
 わたしは動揺していたけれど、その小箱にはチョコレートが入っていて、彼はそれをくれようとしているのだ、ということは理解できた。

「ありがとう、ございます」

 気の抜けた声でそういうのが精いっぱいだった。ちょうどそこに有架が戻ってきた。小箱に目を留めて口を開く。

「あら、それなあに?」
「チョコレートだ」

 素っ気なく彼は答える。

「私には?」
「ない」
「ふうん」

 有架はさほど残念そうでもなく、それどころか、なにやら意味深な笑みを浮かべてわたしを見た。不気味だ。

「どうしたの」

 と尋ねても、ひとりでニヤニヤしている。有架は整った顔立ちをしているので、そういう笑い方をすると妙な迫力がある。
 いやな予感がした。
 果たして、わたしの予感は的中した。有架は、彼に対してなにかはたらきかけたらしい。
 後日、彼から直接連絡があり、驚いているうちになぜかふたりで会うことになった。
 わたしはすぐさま有架を問い詰めた。

「いったいなにをしたの?」

 有架は涼しい顔で答える。

「連絡先を教えただけよ。これが彼のアドレスね、はい」

 メモ用紙を差し出されてわたしは絶句する。自分のあずかり知らぬところで、なにかとんでもない事態が進行している。そう思った。
 このときばかりは、わたしのポーカーフェイスも崩れたらしい。とりなすように有架はいった。

「勝手に話を進めたのは悪かったと思う。でも、彼のこと気になっていたでしょう? 彼もそうだった。無理強いはしてないよ。連絡をしてきたのは彼の意思。人間性は信用できる。保証する。でなきゃ、無断で連絡先を教えたりしない」

 有架のいいぶんはおおむね理解できる。けれども、それでわたしの動揺が治まるわけではない。
 そのあと、わたしは逆に有架に励まされた。そしてとうとう説得されてしまった。
 だいたいわたしは有架に弱い。
 しっかり者の有架は、ぼうっとしているわたしを気にかけて、なにかと世話を焼いてくれる。子どもの頃からそれは変わらない。
 困ったことに、わたしはそれがきらいではないのだ。

 観念して、彼と会う約束を果たした。




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