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□禁じられた遊び
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 日蔭の身。
 わたしの人生をひとことで表すとしたら、この言葉以上に相応しいものはないと思う。
 母は名の知れた旧家の主に囲われた、いわゆる愛人。わたしはその人とのあいだに生まれた庶子。
 時勢を読むことに長けた父は事業を拡大させ、その一代で莫大な財を築いたらしい。その大胆な手腕から豪傑と謳われた彼は、色事を好み、派手に遊ぶことでも知られていた。
 わたしはよくは知らないけれど、母のような立場の女性がほかにもたくさんいたのだろう。
 それでも、たびたび家にやって来る父はやさしかったし、わたしは自分の境遇を嘆いたことはない。母も、父から経済的な援助を受けていたとはいえ、自分でも働き、その仕事に誇りを持って暮らしていたので、むかしの物語などにあるような、じめじめとした雰囲気はまるでなかった。
 だけどまさか自分が母と同じような立場に身を置くことになるとは、わたしも、ましてや父も母も考えてもいなかったに違いない。

 *****

 ふと、見覚えのあるうしろ姿を見付けた。赤みがかった柔らかそうな髪。すらりとした立ち姿。わたしはすぐに彼のことを思い出した。けれど、彼はきっとわたしのことを覚えていないだろう。
 そう思ったとき、なにかに呼ばれたかのように彼が振り向いた。わたしを見て、驚いたようすで目を瞠る。
 思いがけないできごとに、わたしはその場に立ち竦む。わたしのことを覚えていないなら、そんな反応はしないはず。
 はたして、彼は驚いた表情のままわたしの名を呼んだ。
「海棠さん?」
 はい、と返事をする。そして、ひとからそう呼ばれるのはずいぶんひさしぶりだと気付く。
 高校を卒業して以来、ごく限られたひととしか会わないような生活を送っているので、あらたまって名字を呼ばれることはまずない。
 彼はこちらへ近付いてくる。
「ぼくを覚えているかな」
 わたしはこくりとうなずく。
「柘植くん」
 彼、柘植くんはわたしのまえで足を止めると、少し目を細めてじっとわたしを見つめる。心を見透かすような透明な眼差し。
 ああ、この瞳だ。
 わたしは学生時代に彼に助けられたことがある。きっと生涯忘れない。
「海棠さんは、これからどこかへ行くところ?」
「え? わたしは、」
 思いがけないひとと再会したためか、動揺して、自分がどこへ向かっているのかを忘れてしまったらしい。そういう、普通ならありえないようなドジをわたしはたびたびやらかす。そんな自分に呆れながらも言葉を探す。
「家に帰るところ、だと思う」
「うん、そうしたほうがいい。送って行こう」
 予想もしない申し出に、びっくりして彼を見あげる。
「えっ、いえ、ひとりで帰れるから」
「迷子になるよ」
「迷子?」
「うん。海棠さん、自分が今どこにいるのかわかっている?」
 そういわれて周囲を見まわす。視界一面に広がるのは鬱蒼と繁る木々。空を仰いでも、枝葉に遮られて光も差さない。薄暗い。
 ここはどこだろう。
 いつのまに、こんな森のような場所に足を踏み入れてしまったのだろう。
「ここは、どこ?」
「狭間」
「はざま?」
「そう。とりあえずここから出たほうがいい。手を貸して」
「は、はい」
 うながされるまま手を差し出す。その手を掴んで柘植くんは歩き始める。
「ここの道は、あってもないようなものだから。一度はぐれたら見付けられる自信はない。離れないで」
 背中を向けたまま淡々という柘植くん。その静かな口調が余計に恐ろしい。わたしはあわてて彼の手を握った。
 彼の言葉どおり、もしわたしひとりだったら絶対に迷っていただろう。どこをどう歩いて来たのか、森を抜けて見慣れた我が家が見えてきたとき、安堵のあまりその場にへたり込みそうになった。
「ありがとう、柘植くん」
 玄関先で深々と頭を下げて礼をいう。柘植くんは「いや」と首を振るとわたしを見下ろして言葉をつづけた。
「なにか困ったことが起きたらぼくを呼んで。呼ぶだけでいい。海棠さんの声ならたぶん届くと思う」
 戸惑いながらもわたしはしっかりとうなずく。呼ぶ、というのはそのままの意味で、電話をかけるとかメールを送るとか、そういうことではない。
 彼はわたしに連絡先を教えなかったし、わたしも聞かなかった。それでも、彼が気休めからそんなことをいったのではない、ということはわかる。
 柘植くんはそういうひとだった。



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