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□花と修羅
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 九鬼が訪ねてきたのは八月なかば、ちょうど盂蘭盆会のころだった。
 夏の盛りで、午前中から気温がどんどん上昇し、それから日が暮れるまでのあいだ、息をするのもやっとというような猛暑がつづいていた。とてもじゃないが外出する気にもならない。
 わたしは日がな一日、部屋で惰眠を貪るか、汗を流しながらも現実逃避のために読書に耽って日々をやり過ごしていた。
 わたしが住まう古い家は山のなかほどに位置している。周囲には鬱蒼とした森が広がる。木々に遮られて日があたらないぶん、場所によってははっとするほどひんやりと涼しく感じられる部分もある。そういう場所を求めて、わたしは本を片手に猫のようにうろうろと歩きまわってはばったりと倒れ込むのだった。
 その日も、畳に寝そべって本を読むうち、うつらうつらとまどろんでいたらしい。開け放した窓から気持ちのよい風が吹き抜け、わたしの頬を撫でる。
 ふと、ひとの気配を感じた。
 夢とうつつの狭間をゆらゆらとたゆたっている状態なので意識が判然としない。だが、だれかが近くにいる。そう感じた。
「佐倉」
 名を呼ばれる。知っている声だ。わたしはゆっくりと瞼を開く。意識がまだ戻ってこない。瞬きを繰り返すうちに焦点がはっきりしてくる。
 庭に目を向ける。開いたままの硝子戸の向こうにだれかが立っていた。白いシャツに黒のズボン。男だ。
「九鬼?」
 ぼんやりとつぶやく。姿勢のよい立ち姿。そのシルエットだけで彼だとわかる。
 鬱蒼とした木々を背に佇む九鬼は微かに笑った。
「ひさしぶりだな」
 低く、よく通る声は間違いなく九鬼のものだ。
 わたしは飛び起きた。信じられない思いで、かつての同級生を見つめる。彼はたしかにそこに存在していた。
「どうして」
 ようやく出てきたのは、そんなつまらない言葉だった。もっと気の利いたことがいえないのかと自分が情けなくなる。
 だが九鬼も、このわたしにそんな芸当は期待していないだろう。そう思い直す。そんなわたしのようすに頓着せず、あっさりと彼は答えた。
「盂蘭盆だからな。帰ってきたんだ」
 そして淡々とつづける。
「まるで幽霊にでも会ったような顔だな」
 目眩がするような軽口を叩く。まるでもなにも。呆然としたまま二の句が継げないわたしに九鬼は苦笑いを浮かべた。
「そんなに驚かせるつもりはなかった。すまない」
 わたしはゆるゆるとかぶりを振る。
「いや。でも、ほんとうに?」
「ああ、会いにきた」
 感動的な再会の台詞をいったかと思うと、九鬼はいきなり吹き出した。もう我慢できないとでもいうように肩を揺らして笑いつづける。わたしは呆気にとられてこの旧友をまじまじと眺める。
 なんなのだ、いったい。
「な、なにがおかしい」
「佐倉、顔に畳のあとが付いているぞ」
「な」
 わたしはあわてて両手で顔を抑える。顔から火が出るとはまさにこのこと。
「笑いすぎだ。失礼な」
「いや、すまんすまん。相変わらずだな」
 さんざん笑ったあとで謝られても素直にうなずけはしない。ふて腐れたわたしに九鬼は謝罪を重ねる。
「悪かった。機嫌を直してくれ。せっかく戻ってきたのに、気まずいまま別れたくない」
 はっとする。そういわれては仏頂面をつづけるわけにはいかない。
「もういい。怒ってはいない」
 わたしがそういうと、九鬼はけろりとした表情に不敵な笑みを見せた。
 この男。
 変わっていない。



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