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□恋におちて
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このひと月というもの、若月はそれはそれは幸せな日々を過ごしている。
ずっとひそかに想いを寄せていた桜庭桃と恋人という関係になり、彼女の実家へも招かれ(そう仕向けたともいえるが)交際を認められた。
そして、桃と身も心も結ばれて、これまで生きてきたなかで間違いなく、いまがいちばん幸せな日々だといえる。
だが。
そんな彼の心を惑わす不安要素があるのもまた事実だった。
「ちょっと、若月」
仕事が片付くや否や、いつになく素早く帰り支度をはじめた若月を呼び止める声があった。
先輩の小沢だ。
「はい。なんでしょうか」
「ちょっと来て」
連れていかれた先は給湯室だった。小沢は冷蔵庫から洋菓子店のちいさな箱を取り出すと若月に手渡す。
「いまから桜庭さんのお見舞いに行くんでしょ」
ずばりといいあてられて若月は一瞬返事に詰まる。めったにない彼の反応をまえに、小沢は呆れたように笑う。
「彼女のようすが気になって仕事もろくに手がつかない。違う?今日みたいに、やけに時計を気にする若月を見たのははじめてね」
すべてお見通しといわんばかりの小沢に、返す言葉もない。若月は素直に頭を下げた。
「申し訳ありません」
「謝ることないわよ。いつも隙のないあんたが妙にそわそわしてる姿なんて、めったに拝めないもの。いいもの見せてもらったわ。はい、これ。口溶けのいいプリンだから、もし桜庭さんが食べられそうなら渡してあげて。駄目ならあんたが食べていいわ」
「はい。お預かりします」
「そんなに症状はひどくないって聞いたけど。悪さするんじゃないわよ」
そう釘を刺されて若月はふたたび返事に窮する。
まったく、小沢には敵わない。
若月が桃に好意を寄せていたことも、この小沢にはとっくに見抜かれていた。そんな素振りを見せた覚えはないのに。桃と付き合いはじめたことも、なぜか彼女にはすぐにばれて「よかったわね」と背中を叩かれたことは記憶に新しい。
若月と桃との関係は職場では伏せたままで、知っているのは小沢だけだ。若月としては公にすることに抵抗はないのだが、桃はそうではないようで、はっきりとはいわないが、できるなら公表はしたくない、という思いが感じられる。もちろん、職場にそういった恋愛ごとを持ち込むのは誉められたことではないし、あえて公言する必要もない。
だが、若月には複雑にならざるを得ない理由があり、それが彼の幸せに影を落としていた。
今朝、桃は風邪を引いて欠勤した。若月は毎朝彼女と電車で落ち合い出勤している。家を出るまえに彼女から電話がかかってきて、風邪を引いてしまったので今日は休むと告げられた。
巷でインフルエンザが流行っていることもあり、若月たちの勤める会社でも、風邪だからと軽視せずに大事を取って休むことをすすめている。無理をして出勤しても本人がつらいだけでなく、他人に感染する可能性があるからだ。
桃は午前中に病院へ行ったらしく、インフルエンザではなく一般的な風邪だと診断されたとメールが届いた。熱はあまりなく、身体が怠いだけだから大丈夫と書かれていたが、彼女のいう「大丈夫」を若月はあまり信用していない。
自分にもその傾向があるが、桃はとにかく我慢をするくせがある。良くいえば我慢強い。悪くいえば他人に甘えない。
病気のときくらいは遠慮せずに甘えてほしいと若月は思う。
恋人なのだから。