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□青天の、
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 その日も、いつもと同じくなんの変哲もない、至って平和な一日になるはずだった。
 あの瞬間までは。


  *  *  *  


 年が明けてあっというまに一月が過ぎ、またたくまに二月が終わり、いつのまにやら三月に入っていて。きっとこの調子で三月も過ぎ行き、気が付けば梅雨、初夏、真夏、晩夏、初秋、冬至、年末年始と、季節の変化について行けず、その狭間にぽつんと取り残されるんだろうなと思うと、時間の流れの速さにため息がこぼれる。

 二十歳を過ぎたらあっというまに時が経つ、というのはいろんな人から聞いてきた言葉だけど、まさにそのとおりで。
 気が付けば、もう三十歳。
 えっ、と思う。
 毎日毎日、生計を立てるために働いて、少しでも心地好く過ごすために住まいを整えて、栄養よりもいかに手早くできるかを重視した食生活と、一日の疲れをほぐすためのお風呂、そして睡眠。その合間を縫うようにして、唯一の趣味である読書の時間を獲得する。
 それだけで一年が終わってしまう。大げさでなく、本当にそんな感覚だった。

 不満はない。強いていえばもう少し読書のための時間が欲しいけれど、それは贅沢というもの。自分でもわかっている。
 だから不満はない。
 このままの生活サイクルを維持して年を重ね、老後はそれなりの貯蓄といくばくかの年金を頼りに、老眼鏡の世話になりながらも本を読めるならそれでいい。それ以上は望んでいないし、これ以上の贅沢はないとも思う。
 平穏無事に生きるのがいちばん。ドラマチックなできごとなんてこれっぽっちも望んでいないし、そんな展開になったら静かに本が読めなくなる。それは困る。死活問題といっていい。わたしにとっては。
 恋愛も、今までに好きになった人は何人かいるけれど、実際に付き合ったことがあるのは一度だけ。それなりに楽しかった。楽しかったけれど、同時に疲れもした。もともと社交的な性格ではないし、自分の領域に立ち入られるのが好きじゃない。なにより、読書の時間が削られるのが苦痛で仕方なかった。

 自分は色恋に向いていない。
 恋愛は物語のなかで堪能するだけでもう充分。自分でもちょっとどうかと思うくらい、結婚願望というものは皆無だし、恋人が欲しいとも思わない。
 淋しい、という感情は、とうの昔に尽き果てた。
 こんなわたしにも、淋しくて淋しくて、生きているのがつらくて苦しくてたまらない時期があった。文字でしか知らなかった孤独というものを、あのときにわたしは理解した。
 孤独というのは、人と交わらないこと。どんなにたくさんの人が傍にいても、わたしの意識がほかの誰かと混じりあうことはない。ときに干渉することはあっても、完全に独立している。それが孤独。親しい人がいるかどうかは問題ではない。それを知ってしまえば、たとえ心から笑っているときでも、その片隅にひっそりと孤独は存在する。
 孤独は決して悪いものではない。ただ、それを知って受け入れるには覚悟が必要で。
 自分はひとりなんだという事実を突きつけられるから。
 慣れてしまえば、孤独というのは苦ではない。自分のなかに、誰にも触れられることのない不可侵の領域があって、その冷ややかな静けさがわたしを穏やかにしてくれる。
 これがわたしの軸、芯の部分なのだと思う。
 生きているのがつらく感じたとき、わたしを救ってくれたのはたくさんの物語だった。自分のなかの空洞を埋めるように手当たりしだいに本を読み漁り、さまざな物語の世界に没頭した。
 わたしが淋しさを感じなくなったのはそれからだ。
 だからたぶん、今のわたしの身体は水と血肉と物語からできている。満ち足りていて過不足はない。そう思ってきたし、今もそう思っている。


  *  *  *  


 わたしは焼肉屋で働いている。
 お店は夕方から深夜まで営業していて、わたしはホール担当なので仕込みをすることはほとんどないけれど、簡単な手伝いならできるので少し早めにシフトに入る。
 お店にはいろいろな業者が出入りする。肉、野菜、お酒、そのほかの食材や調味料はもちろん、トイレなどの水回り用品を扱う会社や清掃業者など、曜日ごとに入れ替わり立ち替わりさまざまな人がやってくる。
 会社ごとに、このエリアは誰それ担当、というふうに決まっていて、よほどのことがなければ毎回同じ人が商品を運んでくる。当然、顔馴染みになる。ものすごく愛想のいい人もいれば、こちらがたじろぐほど仏頂面の人もいて、会社というよりその人個人の性格いろいろでちょっと面白い。
 わたし自身、あまり愛想のいいほうではないので、スタッフ同士ならともかく、業者の誰かと必要以上に会話をすることはないのだけど。

「こんにちは、お世話になります」

 裏口のほうから馴染みのある声が聞こえた。




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