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□恋文の顛末
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 これまでの二十八年間の人生において、たった一度だけ、香川佐保はラブレターというものを受け取ったことがある。
 高校の卒業式の日に。
 相手は同じクラスの山科という男子生徒だった。
 クラスメイトとはいえ、そんなに話したことはなかったし、自分は同性はおろか、異性から好意を寄せられるような人間ではないと思っていたので、ものすごく驚いた。
 卒業式のあと、いつまでも教室に居残るクラスメイトたちに別れを告げて校舎を出たところで、背後から呼び止められた。周りには、ほかのクラスの生徒がちらほらといた。
 そんななか、学生服をきっちり着込んだ山科は、人目を憚ることなく香川を呼び止め、封筒を差し出した。
 なんだろう、と怪訝に思い首を傾げると、山科はまっすぐに香川を見つめていった。
「いきなりでごめんやねんけど、受け取ってほしいねん。返事はいらへんし、読んでくれるだけでええから」
 二年生のときに関西から転校してきた彼は、その地方独特の話しかたをした。
 馴染みのない言葉に、最初のうちは戸惑いを覚えたが、端整な顔立ちとおとなびた雰囲気をまとった山科は、一見、気安く近寄りがたい印象を与える。その彼が、外見とは裏腹に、口を開けば思いがけず柔らかなものいいをするのだ。
 その意外性は親しみやすさとなって、排他的で多感な年ごろの集団にすんなりと受け入れられた。
 その山科から突然声をかけられ、よくわからないながらも香川がおずおずと封筒を受け取ると、山科はわずかに表情を和らげて微かに笑った。
「おおきに。ほな、香川さん、元気で」
 それだけだった。山科は振り返ることなくその場を去り、ひとりとり残された香川は呆然と立ち尽くすしかなく。
 山科から手渡された封筒は水浅葱色で、彼がもし自分で選んだのだとしたら、同級生の男子にしては渋い色合いだなと、そんなことを考えていた。
 そうして家に帰り、自室で封を開けて中身を確認したときにはじめて、それがいわゆるラブレターだということに気が付いた。
 封筒と同じ風合の便箋には、これまた同級生にしては達筆な文字で、最初と最後に宛名と署名が記され、本文にはただひとこと、
 好きです。
 とだけ書かれていた。
 人違いではないかと思ったが、山科はたしかに香川を呼び止めたのだし、宛名も間違いなく香川佐保様と書いてある。
 次に、なにかのいたずらではないかと勘繰ったものの、少なくとも香川の知る限り、山科はそういったたぐいのいたずらや冗談を仕掛けるような人物ではない。
 香川は困惑した。困惑したが、山科は「返事はいらない」といっていた。つまり、香川からの反応は期待していないし待つつもりはない、ということだろう。
 去りぎわに「元気で」といっていたし、それは別れの挨拶だ。
 そもそも香川は山科の電話番号やメールアドレスをいっさい知らない。山科のほうも同じだろう。そう考えて、ああ、だから手紙なのか、と思い至る。
 いったいどうして山科から好意を持たれることになったのかはわからないが、手紙をまえにしばらく考えたあと、香川はそれを丁寧に封筒に戻すと机の抽斗にしまった。

 それからもたびたび、香川はその手紙を取り出しては読み返し、短大を卒業後、就職のために実家を出るときには、身のまわりの荷物と一緒に新居に持っていった。
 香川自身は、当時、山科に対してとくべつな感情を抱いてはいなかったが、取り立てて秀でたところがあるわけでもない自分のような存在に目を留めて、好意を持ってくれた人物がいたことは素直に嬉しいと思った。
 それに、自分でもちょっとどうかと思うが、仕事などでいやなことがあったり落ち込んだりしたときに、かつて山科からもらったその手紙に触れると、不思議と心が慰められて、ささくれた気分がいくらか穏やかになるような気がした。
 そんなふうに、いつからか、その手紙は香川にとってお守りのような存在になっていた。
 学生時代のささやかな思い出。そうなるはずだった。それなのに。
 たぶんもう会うことはないと思っていた山科と、香川は再会した。



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