BL/ML

□真夏の夜の夢
1ページ/5ページ



 蝉時雨の嵐だ。夢とうつつの狭間、ぼんやりとした意識のなかで環はそう思った。庭の椿の木にでもとまっているのか、やけに近くからけたたましい蝉の鳴き声が響いている。
 暑い。畳のうえに投げ出した身体の毛穴という毛穴から汗が吹き出しているのがわかる。額から汗が流れ落ちてこめかみを伝う。開け放した窓から風はそよとも吹かず、人間に例えるならかなりのご老体であろう扇風機がぎこちなく首を振りながら生ぬるい風を送り出していた。
 じっとりと濡れた身体に顔をしかめつつ環は目を開ける。座布団やクッションなどを並べて日に当てている縁側の向こう、朝方干した洗濯ものがさんさんと降りそそぐ日差しに照らされている。もうそろそろ乾いているだろう。取り込んで、次は母と姉と自分、三人ぶんのシーツを洗わないと。
 そう思いながらも身体を動かすのが億劫でならない。こうも暑いと息をするのもやっとだ。環は暑さ寒さにすこぶる弱い。あまり丈夫でなかった子どもの時分にはしょっちゅう寝込んでいた。そのたびに、ふだんは豪快な言動で環を圧倒する母親と、環を下僕のごとくこき使う女王様気質の姉が揃って妙に優しくなるのがおかしかった。
 その理由を環は知っている。
 いわゆるバリバリのキャリアウーマンで思いきり現代人のはずの母と姉が、いまだに迷信じみた呪縛にとらわれているのが不思議でならない。母親がいう、代々一族に降りかかってきたという「一ノ瀬家の呪い」は、当人である環にとってはさして畏怖するものではなかった。呪いだなんて大げさな、と思ってしまう。
 もし万が一、自分の身になんらかの災いが降りかかってきたとしても、そのときはなるようにしかならない。環はそう考えている。

 ふと、日が翳ってひんやりとした風が吹いた。唐突に断ち切られたかのように蝉時雨がふっつりと止む。
 つかのま、うたた寝をしていたらしい。環はふたたび目を開けて視線を巡らせる。いつのまに現れたのか、縁側に馴染みのある男が立っていた。
「渡来さん」
 そうつぶやくと、まばたきをして、環はゆっくりと起きあがる。服が背中に張りついて気持ち悪い。
 真夏にもかかわらず、いつもと同じ真っ白い長袖のシャツを着た渡来は、汗ひとつ浮かべずに涼やかな顔をして微かに笑った。
「やあ。昼寝の邪魔をしたかな」
「いえ、もう起きようと思っていたので」
「それならよかった。素麺をもらったから一緒にどうかと思って」
 そういって渡来は片手に提げていたビニール袋を軽く持ちあげて見せた。ちょうどさっぱりしたものが食べたいと思っていたところだ。ありがたい。環はにっこりと笑って礼をいう。
「ありがとうございます」
「お邪魔してもいいかな」
「あ、はい、どうぞ」
「じゃあ失礼して」
 渡来は靴を脱いで縁側からあがってくる。わざわざ玄関にまわってもらうような堅苦しい間柄でもない。だが、炎天下をやってきたとは思えない、すっきりとした端整な顔をまえにすると、とたんに環は汗だくの自分の姿が気になってきた。
「あの、ちょっとシャワーを浴びてきていいですか」
 渡来は少し首を傾げるようにして環を見つめる。
「いいよ」
「すみません。冷房をつけるので、ここでゆっくりしていてください」
「台所を借りていいかな」
「え」
「君がシャワーを浴びているあいだに素麺を茹でておくよ。迷惑でなければ」
「迷惑なんて」
「ゆっくり汗を流しておいで。あと、洗濯ものは早めに取り込んでおいたほうがいい。今日は夕立がくるよ」
「えっ」
 今から二度めの洗濯をしようと思っていたのに。
「じゃあ今日はシーツを洗うのやめようかな」
 庭に目を向けて環がつぶやくと、いつのまにか台所に足を踏み入れて早くもビニール袋から素麺を取り出していた渡来が顔をあげる。
「大丈夫。あと二時間はもつから間に合うよ」
 さらっという。渡来は雲行きを読むのに長けていて、どんなに晴れていても彼が降るといえば確実に雨雲がやってくるし、降らないというとほんとうに一滴も落ちてくることはない。不思議でしかたないが、実際、渡来のこの天気予報のおかげでずいぶん助かっているのでありがたく参考にしている。
 そんな単純な環とは異なり、姉の都は、どこか得体の知れないところがある渡来を胡散臭く思っているようで、環と彼がこうして気軽に行き来するのを快く思っていない。
 だが、もとはといえば渡来は都の同級生である。
 当時から、都は渡来を毛嫌いしていた。都と環は歳の離れた姉弟で、都が高校生のとき、環はまだ小学生だった。環が渡来と知り合ったのはそのころのことで、彼が都と同級生だと知ったのはそのあとのことだ。
 都は、黙ってさえいればかわいらしい容姿をしている。そのため、子ども服メーカーに勤める母親に頼まれて、小さなころからモデルのようなことをしていた。よそからも声をかけられたりしていたようだが、成長して子ども服を卒業すると同時にモデルもやめた。
 その都の代わりに母親に駆り出されたのが環だ。環は物心がつくまえから、母親と都によって着せ替え人形よろしくあれこれと愛らしい洋服を着せられていた。そんな環にとってモデルはその延長線上でしかなく、環自身はどちらでもかまわないと他人事のように思っていた。
 だが、環がモデルとなることに反対したのは都だった。
 あれほど好き勝手に環を着飾っておきながら今さらなにを、と母親は呆れたようだが、そもそも自分の仕事のために子どもたちを引っ張りだしているという理由と、もうひとつ、環の将来を考えて負い目を感じたらしい。母親のなかでどういう議論が展開されたのかはわからないが、それでも結局は環を起用することを選んだ。
 環が着せられたのはすべて女の子の服だった。ちなみに、日常で都が好き好んで着せたのも、ひらひらしたレースに縁取られたお姫様のような洋服である。
 しかし、環は女ではない。男だった。



次へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ