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□真夏の夜の夢
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 シャワーを浴びて浴室を出る。脱衣所に設置した洗濯機がすすぎ洗いをしていた。シーツが洗いあがるまでもうしばらくかかる。
 用意していたノースリーブのワンピースを身に着けると、タオルで髪を拭いながら台所へ向かう。廊下から顔を覗かせると、テーブルのうえには素麺の仕度がすっかりできあがっていた。
「お待たせしました」
 頭にタオルを乗せたまま環がぺこりとお辞儀をすると、椅子に腰かけていた渡来がふっと笑う。
「またすぐに汗をかいてしまうね。あちらへ移動しようか」
「あ、はい」
 冷房の効いた居間へ素麺を運ぶ。いつも食卓代わりに使っている年代物の卓袱台があるので、そのうえに器を並べる。
「渡来さん、すごいですね。あんな短時間でこんなに用意できるなんて」
 環は感嘆する。素麺はひとりぶんずつ器に盛りつけられており、つやつやした麺を覆い隠すように、きゅうりやトマトや金糸卵、甘く煮た椎茸や刻みねぎ、おろし生姜や茗荷などがふんだんに乗せられている。それだけでなく、こちらも持参してきたのだろう、小さめのいなり寿司が大皿に盛られていた。
「ああ、具材はあらかじめ切ってきたし、いなり寿司はゆうべのうちに作っておいたからね」
 なんでもないように答える渡来に、環はあらためてすごいなと思う。
 渡来は店を開いている。正確には、店を任されている、のだという。オーナーは別にいて、渡来は日々の営業を一任されているらしい。「小さい店だし、ただの雇われ店長だよ」というが、よほど信頼されていなければ店をまるごと預けられることなどないだろうし、商売をする以上はそれなりの腕が必要になる。渡来はその条件を満たしているわけだ。だれにでもできることではない。
 濡れた髪の水気を吸ってほんのり湿ったタオルを肩に掛けて、環は両手を合わせる。
「いただきます」
「どうぞ」
 箸を取り、まずは豪華な具材から手を伸ばす。一ノ瀬家で環がこしらえる素麺は至ってシンプルなもので、こんなふうに色とりどりの具は乗っていない。渡来はまめな男だなとしみじみ思いながら錦糸卵を食べる。ゆっくりとした箸使いで黙々と食べていると、ふと、視線を感じて顔をあげる。
 渡来がじっと環を見ていた。
「どうかしましたか」
 尋ねると、渡来は「いや」とつぶやいて小さく笑う。
「一心に食べる姿がかわいいなと思って」
 環は箸を片手にきょとんとする。
「おかしいですか」
「おかしくはない。かわいいといったんだよ」
 こうして渡来とふたりで食事をする機会はたびたびあるが、気が付くと彼に見つめられていることがしばしばある。かわいい、という台詞もわりとよく耳にするので、そういわれても最近はとくに違和感を覚えることもない。家族で食卓を囲むときも、賑やかな母親と姉の会話を聞き流しながら、環はいつもひとり黙って食べつづける。話をしながら食べるのが得意ではない。たぶん要領が悪いのだと思う。
 手を止めたまま環がそう説明すると、渡来は声を立てずに笑った。
「ぼくはそのほうが好きだよ」
「そう、ですか」
「うん」
 一緒に食事をしている渡来がそういうならそれでいい。環はそう納得してふたたび食卓に目を落とす。
 すっかり食べ終えて「おいしかったです。ご馳走さまでした」と礼を述べると、洗濯していたシーツを干すためいったん席を外す。洗濯かごを抱えて縁側に出ると、むっとした熱気に包まれて汗がにじむ。
 チリン、と微かに鈴の音が聞こえた気がした。
「すず?」
 あたりを見まわしたが、それらしき姿は見当たらない。すず、というのは、ときどき庭にやってくる黒猫の名前だ。ほんとうの名前は知らない。いつだったか、はじめてこの庭でその黒猫と出会ったとき、どこからか鈴の音が聞こえたような気がして、振り向くとそこに黒猫がいたのだ。でも、見たところ首輪はしていないし、しなやかな身体のどこにも鈴が付いているようすはない。不思議だったが、その黒猫が現れるたびにかならず鈴のような音が聞こえるので、環は勝手にすずと呼ぶようになった。
 けれど今日は、音はすれども姿は見えない。しばらく待ったあと、気のせいだったのかなと首を傾げつつ、すっかり乾いた洗濯ものを取り込んでシーツを干す。見あげた空は青く高く、今のところ雨雲がやってきそうな気配はない。夕立が来るまえに乾きますようにと念じながら、冷房が効いた部屋へと戻った。
「そういえば、近々祭りがあるようだね」
 デザートに、冷たく冷やした無花果の実を食べていると、渡来が思い出したようにいう。そういえば、姉の都がそんなような話をしていた覚えがあった。
「よかったら、一緒に行かないか」
「え」
「祭りは嫌い?」
「いえ、そんなことは」
「じゃあ決まり。なんでも買ってあげるよ」
 ふふ、と笑う渡来は、たぶん環を小さな子どもだと思っている。歳が離れているのでしかたない。姉と同い年なのだから。でも、今まで祭りに行こうなんて誘われたことはなかった。渡来には店がある。
「でも、お店は大丈夫なんですか」
 環が訊くと、いたずらっぽく笑って「心配いらないよ」という。休むつもりだろうか。いいのだろうか。気になるが、渡来と一緒に出かけることはほとんどないので心が動く。無花果を見つめてそわそわしていると、ふいに髪を撫でられて驚いた。
「ぼくと一緒だといや?」
 あわてて首を振る。
「楽しみだね」
「はい」
 渡来とふたりで出かけることが都にバレたら厄介だなと、環はひそかに思った。


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