BL/ML

□微熱
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 朝起きたときに、ああまずいな、と思った。
 身体が熱くて、頭がぼうっとする。風邪の症状に似ているが、そうじゃない。もっと甘くて、もっと切実な衝動。
 仕事を休もうか、と一瞬考えて、すぐにそれを打ち消す。だめだ。今日は取引先との予定が入っている。以前から懇意にしている大口の契約相手で、こちらの都合で予定を変更するわけにはいかない。
 おれはため息をついて、シャワーを浴びるためにベッドから降りた。

 *****

 ふだんはめったに立ち入らないような夜の歓楽街。世のなかは不景気だというが、少なくとも、今この場所ではそんな言葉は微塵も感じられない。
 きらびやかなネオンの下をあてどなく歩いていると、ふっと傍らに人の気配がした。振り返るまもなく背中に腕が回されて、そのまま薄暗い路地裏に誘導される。
 背中に冷たい壁があたる。顔の横に手が伸びてきて、壁を押さえたその腕がおれの逃げ道を塞いだ。薄明かりの下、すぐ目のまえに立つ男の顔が見えた。細面の、整った顔立ち。短髪で、左耳にリング型のピアスをいくつも嵌めている。
 痛そうだ、と呑気なことを思っていると、男は目を細めてささやいた。
「お兄さん、すげえ好み。相手探してるんでしょ。おれじゃダメ?」
 直截なものいいに思わず顔が熱くなる。おそらくおれより年下だろう男は、慣れたようすでおれの髪に触れてくる。
「もしかしてはじめて?」
「いや」
「キスしてもいい?」
 声が、近い。うつむいたおれの前髪を男の顔が掠める。びくんと身を竦めた瞬間。
「だめです」
 おれじゃない声が答えた。
 驚いてそちらを見ると、路地の入口に細身の男が立っていた。その顔を見て、おれは息を呑む。
 知っている男だった。
 硬直するおれとその男を交互に見遣り、おれに触れていたピアスの男は動じるでもなく尋ねてくる。
「知り合い?」
 おれはぎこちなくうなずく。その微妙な空気を察したのか、男は小声でささやいた。
「助けてあげようか。それとも、退散したほうがいい?」
「ごめん」
 返事の代わりに謝るおれに苦笑すると、男はあっさりと身体を離した。
「残念。おれ、たいていこのへんにいるから、気が変わったらいつでも来てよ」
 そういってピアスの男は路地から出ていく。入口に立つ男とすれ違いざまに、ちらっと一瞥をくれたのが見えたが、その男のほうはおれを見据えたまま視線を動かさない。
 仕立てのいいスーツに身を包んだ男は、ゆっくりとおれに近付いてくる。
 なにをいわれるだろう。身がまえたおれに、彼は告げた。
「七瀬さん、飲みに行きましょう」



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