BL/ML

□花折人
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冷酷無慈悲。
梓(あずさ)の父親を表するには、このひとことで充分に事足りた。


先代から受け継いだ、決して多いとはいえない遺産を元手に一代で莫大な財産を築き上げた父親は、事業拡大に手腕をふるったが、人間としてあるべきものが欠落していた。
感情というものが。


ものごころがついた頃、梓の目の前で起きたできごとが、いまだに脳裡に焼きついて忘れられない。


珍しく父親とふたりで出かけた先で、用事を終えて車に戻ろうとしていたところに、ひとりの男が飛び出してきた。
その男は父親の前に土下座をすると、必死な様子でなにかを懇願した。幼い梓にはその内容は理解できなかったが、恐らく事業の関係者だったのだろう。
往来で、大のおとなが人目を憚らず地面に額を擦りつけて土下座をするなど、よほどのことに違いない。


だが、父親は彼の存在を黙殺した。
かまわずにその場を去ろうとした父親の足に男が縋りつく。父親は容赦なくその男を蹴り飛ばした。
顔を蹴られたのだろう。男は顔面から血を流しながら、それでも父親に向かって地に頭をつけて平伏し続けた。


梓は恐ろしくてその場から動けなかった。
顔を蹴られて血まみれになりがらも、父親に対して土下座を続ける男が。そして、そんな彼を前にしても、まったく感情を動かされた様子のない父親の姿が。


その後、男がどうなったのかはわからない。


父親の冷酷無慈悲ぶりは、梓たち家族や使用人に対しても同様で、屋敷内は常に緊張で張り詰めた空気に支配されていた。
ことに梓は、父親から冷たく蔑まれて育った。梓は生まれつき身体が弱く、父親の跡継ぎとしてはあまりに頼りなかった。


そのことで、父親は梓だけでなく母親までも責め立てた。梓がこんなふうに生まれたのは母親のせいだと。
もとは公家に繋がるという歴史ある旧家から嫁いだ母親は、他人からそのように罵られるなど、経験したことがなかったはずだ。
長年に渡り、執拗に人格を否定され続けた母親は、梓を生んでから十年後、精神を病んで自ら命を絶った。


冷たくなった母親を前に、父親が彼女にかけた言葉。そのひとことに梓の心は凍りついた。


『恥さらしが』


夫婦の契りを結んだ相手への最後の言葉がそのひとことだった。
母親をここまで追い詰めたのは梓のせいだ。彼女を死に追いやったのは自分だ。
梓はそれまで以上に自分を責めた。自分さえいなければ。自分さえ生まれてこなければ、母親はこんな目には遭わずにすんだ。


母親ではなく、自分が死ぬべきだった。そう思い詰める梓の胸のうちを見透かしたかのように、冷ややかな声で父親は告げた。


『お前まで、これ以上みっともない真似をしてくれるなよ』


その言葉は梓を呪縛するのに充分だった。
梓は父親には逆らえない。
死を選ぶ権利すら剥奪され、梓は拠りどころを、逃げ場をなくした。


その日から、梓は声を失った。





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