BL/ML
□赤と黒
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魔がさした。そうとしかいいようがない。
和泉(いずみ)は百貨店のなかにいた。文具売場でなにげなく手に取ったボールペン。欲しかったわけではない。もしそうだとしても、硬貨二枚出せばお釣りが戻ってくる程度の値段だ。和泉の財布にはもちろんそれ以上の金額が入っている。
それなのに。
和泉はそのボールペンを鞄に忍ばせようとした。
その瞬間。
すぐ背後から声がした。
「駄目だよ」
ぎくりと、和泉は硬直する。
頭が真っ白になり、心臓がばくばくと早鐘を打つ。見られた。額に汗が滲む。
背後から伸びてきた手がボールペンを掴み、棚へと戻す。和泉は呆然とその手を見つめた。
役目を終えてそのまま引き揚げるはずの手が和泉の肩に置かれる。
「おいで、和泉」
名前を呼ばれてとっさに振り向く。和泉は目を見開く。そこには、見知った人物が立っていた。
冷たく整った顔立ちに、細いフレームの眼鏡。
「……呉林、先生」
喉に張りついて声が掠れた。
呉林(くればやし)は無表情のまま和泉の肩を掴む手に力を込める。
絶望的な気分で、和泉はおとなしく彼に従った。
百貨店を出ると、呉林は迷いのない足取りで進んでいく。どこへ行くのだろうと考える余裕もなく、和泉はあとをついていく。
呉林の目的地は学校だった。
通い慣れた高校を前に和泉は立ち竦む。呉林が振り返る。
「和泉」
名前を呼ばれただけなのに、まるで死刑宣告を受けたような気分になる。
和泉の予想に反して、呉林が向かった先は校舎ではなく職員専用の駐車場だった。
戸惑いながらも、促されるまま車の助手席に乗り込む。
なぜ呉林は車を学校に置いたまま、あの百貨店にいたのだろう。
そんなおかしな疑問にさえ気付けずに、和泉は彼のテリトリーに連れ込まれた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
マンションの駐車場に車を停めると、呉林はほとんど無言のまま、視線と仕草だけで和泉を従わせて部屋へ入る。
ドアの横の表札に呉林とあったので、彼の住む部屋なのだろう。
廊下を進み、奥のドアへと向かう。一歩足を踏み入れて和泉は戸惑う。
ベッドと造りつけのクローゼット。どう見ても寝室だった。
「ドアを閉めて、こちらへ」
ベッドの側に立ち、壁に緩く背をあずけた格好で呉林が指示する。
「……あの、」
さすがになにかおかしいと気付いて、和泉は問うように呉林を見る。
だが、呉林はそれを黙殺する。
「聞こえなかった?」
淡々とした声なのに和泉はぞっとする。なかへ入り、後ろ手にドアを閉める。緩慢な動作で呉林に近付いていく。三メートルほどの距離を置いて足を止める。
呉林は次の指示を出した。
「脱ぎなさい」
「…………え?」
なにをいわれたのかわからず、和泉は思わず聞き返す。いや、そうではない。自分が聞き間違えたのだと思い、もう一度確認したのだ。
「次はないよ。脱ぎなさい」
呉林ははっきりと命じた。
和泉は狼狽する。聞き間違いではない。脱げ、と。呉林は確かにそういった。
「な……んで」
そういいかけてはっとする。もしかして、呉林は和泉がまだほかにもなにか万引きをしていないかと、それを疑っているのだろうか。
服のなかに隠していないかと、それを確認するためにいっているのかもしれない。
「先生、おれ、ほかにはなにも……盗っていません。本当です」
震える声で必死に訴えるが、呉林はまったく反応を示さない。俯いて唇を噛みしめる和泉に、冷ややかな声がいった。
「次はないと、そういっただろう」
――怖い。
呉林は化学教師で、和泉の担任でもなんでもない。授業で顔を合わせる程度で、まともに言葉を交わしたのも、今日がはじめてだった。
呉林は淡々と授業をこなす。決して声を荒げたり、ましてや暴力をふるうようなことはない。
どうしてだろう。その呉林が怖くてたまらない。
俯いたまま、和泉は詰め襟の釦に手をかけた。