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□運命の人
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海里とは幼稚園に通うころからの付き合いで、もう、そばにいるのがあたりまえの存在だった。
月並みないいかただけど、空気みたいに、そこにあるのが当然で。それがなくなるなんて考えたこともなかったし、空気と同じで、なくなったら生きていけない。
いつのまにか、そんなかけがえのない存在になっていた。
だから、この先もずっと一緒なのだと、なんの疑問も持たずに思い込んでいた。
だけど。
そう思っていたのはおれだけで。
ずっとそばにいたのに。やさしい笑顔の下で海里がなにを思っていたのか、おれは少しも気付かなかった。
*****
七月に入ったばかりでまだ梅雨も明けていないというのに、すでにこの先の猛暑を予感させるような蒸し暑い日が続いていた。
「暑い」
梅雨の晴れ間。雨雲ひとつ見当たらない真っ青な空から、容赦なく照りつける鬼畜な太陽に頭を押さえつけられるように、おれはぐったりとうつむいて歩いていた。
くそ、夏なんか大嫌いだ。暑いだけで、いいことなんかなにもないし。
いつものように、心のなかで呪詛の言葉をつぶやいていると、隣を歩いていた海里がいった。
「家に帰ったらアイスが待ってるから、もう少しがんばれ」
アイス。その単語に、だらんとしていた背筋がしゃきんと伸びる。そんな単純なおれをくすっと笑いながら、海里がバッグを持ってくれる。
「あ、サンキュ」
「どういたしまして」
顔をあげると、海里はこのくそ暑い炎天下をものともせず、涼しげな横顔を見せている。うっすらと汗をかいているけれど、おれみたいに見苦しい感じは全然なくて、同じ制服のはずなのに、白いシャツがやけに眩しい。
小さいころから空手を習っていたせいか、姿勢もいいし、なんていうか、隙がない。
「そんな目で見つめられると、勘違いするよ」
まえを向いたまま海里がつぶやく。
「は? 勘違いって、なにが?」
聞き返すと、海里はちょっと笑って、静かに首を振った。
なんだろう。
おれは首を傾げた。
海里の家は、おれが住んでるアパートの近くで、子どものころからしょっちゅうお邪魔しては、時間をつぶしていた。
「ただいま」
いつものように、海里のあとについて玄関に足を踏み入れる。きれいに掃除された家のなかに、ところどころ、異様な爪痕が刻まれていて、もう毎日のように目にしているのに、それらを見るたびにぎょっとしてしまう。
廊下の奥から海里の母親が現れた。
「お帰りなさい」
おれの母親と違って、良家のお嬢様といった雰囲気の海里の母親――おばさんは、数年まえから急速にやつれはじめて、いつも身奇麗にしているのだけど、それがかえって痛々しく映る。
今も、無理をして笑顔をつくっているのがありありとわかって、見ているおれのほうがなんだか心苦しくなる。
「お邪魔します」
ぺこりと頭を下げると、おばさんはあきらかにほっとした表情になり、まるで縋りつくような目をして「ゆっくりしていってね」といった。
おれは戸惑いながら「はあ」とうなずいて、二階へつづく階段をのぼる。
その、壁にも。穴が開いていたり、ひびが入っていたりして。家じゅう、殺伐とした空気に支配されている。
つきあたりの海里の部屋に入って、ベッドにもたれて座り込む。海里がすぐに冷房の電源を入れて「ちょっと待ってて」と出ていく。
整理された机に、本棚とベッド。ぐちゃぐちゃのおれの家とは違ってすごく落ち着く、けど。
この部屋はなんともないけれど、ドアの向こうでは、凄まじい暴力の痕が残っていて。しかも、それは今もどんどん増えている。
おれがまだ小さかったころは、こんなことはなかったし、おばさんもあんなふうにやつれたりしていなかった。
どうして。
海里が戻ってきた。お茶をのせたトレイと、おれの好きな棒つきのアイスを手に持っている。
「ありがと」
受け取ってさっそく袋を開けると、チョコでコーティングされたアイスにかじりつく。はー、生き返る。チョコと冷たいバニラアイスを口のなかで転がしながら、至福を味わった。隣に座った海里は、グラスに注いだ烏龍茶を飲んでいる。海里は甘いものが好きじゃないらしい。
アイスと冷房のおかげで、ようやく汗がひっこんできた。食べきるまえに溶けはじめたアイスが手にこぼれてくる。
「わ、わ」
ふいに伸びてきた手が、あわてるおれの腕を掴むと、指から手首へと伝い落ちるアイスを舐めとる。すぐ目のまえで、海里がおれの手を舐めている。びっくりして、おれはそのまま固まった。
かろうじて棒にくっついていた残りのひとかけらが落ちかけて、間一髪で海里がそれを受け止める。口に咥えたそれを、おれの唇に運んでくる。
え、と思ったとき。
口移しでアイスを押し込まれた。
おれの咥内で、海里が舌先でアイスをもてあそび、溶かしていく。舌のうえに広がるバニラをどうにか飲み込んで、口のなかが空になると、海里の舌がおれのそれに絡みついてきた。
「っん、んぅっ」
頭を振って逃げようとしても、海里の手がおれの後頭部を掴んでいて身動きができない。
なに。なんで。なんでこんな。
パニックになりかけたおれを宥めるように、海里の手が頭を撫でる。
ようやく唇が解放されて、おれははあはあと息をした。目の前に海里の顔がある。冗談だよ、と笑うのかと思った。いつもみたいに、おれをからかったのだと思った。
けれど。
「好きだよ」
笑わないまま、真剣な表情をして海里は囁いた。