中編寄せ集め
□声が好き
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衣替えをとっくに終えているにも関わらず少しばかり涼しい日が続く。放課後の私の特等席で瞼が重くなり始めた。寝たら死ぬぞ。
開いただけの本に視線をやると、もう歪んで何が書いてあるのかもわからなかった。
温かい日差しを受けて眠くならないわけがないじゃないか。幸い私以外いない図書室、ここで寝ても誰も何も言わないだろう。
(少しだけ、ほんの少しだけ。すぐ起きますから)
私は俯き加減になってゆっくりと目を閉じた。視界が暗くなりそこで意識は途切れた。
「――、おい」
「…ん、」
ゆっくりと目を開けると開いたままの本が視界の隅に入った。このまま寝てしまったのか。私も器用になったものだ。
「…寝てたのか」
「…、え?」
そういえばどうやって起きたのだったか、そんなことを考えていると頭の上から声が降ってきた。そうだ、この声に起こされて。
「――あ」
カウンターに置かれた手、それで分かった。彼だ。
「悪ィな、これ借りてェんだけど」
「あっはい、すみません」
久しぶりに貸出カードを見た気がする。それに判子を付いて、差し出す。彼は何を借りたんだろうか。渡す前に表紙を見る。
「『サルでも分かる数学』…?」
「バッカ、見んな」
「えっ、意外」
あんなに勉強をしていたのに、彼は数学は苦手なのだろうか。眼鏡を掛けて勉強している姿からは想像も出来ない。
「ほら返せ…って、笑ってんじゃねーよ」
クスクスと笑いが口から漏れる。それを少し不機嫌そうな声でつっこんで本をその手で抱える。
声、初めて聞いたな。そう思って少し顔を上げるともうこちらは見ておらず、外の方を見ていた。
「お前ェは…」
「はい、」
夕焼けの校庭を見つめている彼。それを追うように私もそちらへ目線を移す。が、何もないので手元の本に戻した。
急に話しかけられると驚いてしまう、その低い声はゆっくりと私に浸透していく。なんだか心地が良い。
「…なんでもねェ、じゃあな、米内」
(今、)
本に移してしまっていた目線を上に上げるともう彼は入口の方へ向かって行ってしまっていた。彼は、私の苗字を知っていたのだ。
「――土方、くん」
(呼べなかったな、土方くんの事)
あの声で呼ばれて自分の苗字が米内で良かったななんてしみじみ思う。あまり好きではなかった苗字だったが、土方くんに呼ばれて嫌な気分ではなかった。
『米内』
土方くんの低い声で静かに呼ばれた苗字を頭の中でリピートする。乱暴な低い声は穏やかにその単語を包んだ。
(呼ばれると嬉しい、話している声を聞けて嬉しい。もっと聞きたい)
人間は、案外欲張りなのかもしれない。
私を呼ぶ低い声