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□メルト
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ことことこと、と鍋から聞こえてくる小さな音がスナコの気持ちを落ち着かせる。
ハロウィンの時にタケルが作ってくれた、ジョセフィーヌ似の骸骨のイラストがついた鍋つかみで重い鍋の蓋をそっとずらす。湯気がたちまち立ち上がり視線で追うと、淡い紫色に染まる夕暮れが窓から見えた。

「…いい匂い」

以前誕生日プレゼントで皆からもらったル・クルーゼの鍋は、最近のスナコには欠かせない存在だ。やたらと重くて洗う時は不便だが、煮込み料理の腕が上がったように思える程素材を甘く柔らかく仕上げてくれる。あぁ、幸せの象徴だとスナコは良い具合に柔らかくなった具材を確かめ微笑むと鍋に蓋をした。

「今日は何」

ひっ…とスナコの息が思わず止まる。後ろから急に抱きすくめられたが、こんなことをスナコにする人間は一人しかいない。その冷たい頬の温度で、今日のバイトが工事現場だったとスナコは思い出した。

あったけ、と心底安心したような声が自分の首元から聞こえることで、より一層背筋が伸びる。消えそうな声でスナコはおかえりなさい、と言うと問いかけに答えた。

「シ、シチュー」
「エビは?」

ありったけの力でスナコが大きく何度も頷く横顔を見て、やり、と恭平は嬉しそうに笑いながら白い首筋にひとつ口づける。今度は声が抑えられなかった。

「ひぃって何だよ。色気ねーな」
「あ、ありません〜!」

ねーのかよ、と笑いながら冷蔵庫からリンゴを取り出して、隣に立つ。スナコはそれを目の端で追いながらも、鍋をぐるぐると掻き回す。あんまり掻き回すと型崩れしてしまうから良くない、と頭では分かってはいたが止まらなかった。このまま掻き混ぜ続けるとタケルの好きなじゃがいもも、きっと溶けて崩れしてしまう。

「で、何でエビなの」
「…タケルがっ。好きだからです」
「ふーん」

しゃりしゃりとリンゴが欠けていく音が隣から聞こえるが、目線は湯気の中から離せない。さびれたスーパーで特売をやっていたのは、鶏肉だったことを思い出しては打ち消す。それなのにエビを買った自分をさとられまいかとフードの中で視線が泳ぐ。見なくても笑っているのが分かる。いつもこのパターンだとスナコは自分の学習能力の無さを後悔する。

「…っ!」

背中を人差し指ですっと撫でられて、思わず掻き混ぜていた手を離す。すんでのところで、前のめりになりそうなところを止めた。

「あっ…ああ危ないじゃないですか!」

フードの奥から恭平を睨んだつもりが、ふと頭が軽くなった。フードを脱がされたのだと気付いたのは、口の中にリンゴの味を感じた後だった。

「………んっ」

あんまり掻き混ぜたら良くない。これは人間にも言えることなのだとスナコはまたひとつ学習したが、すぐに思考は溶けた。水音がする程に深く口づけられて、恭平の胸元を掴んでいないと足から崩れてしまいそうだった。

「…やっとこっち見たな」

優しく覗きこまれて、急に居心地の悪さを感じる。正確には居心地が良過ぎることへのばつの悪さ、だったがスナコにそこまで分析出来る余裕はもう無かった。
思いを告げあってからも、まだスナコは恭平の顔が直視出来ずにいた。ただ唯一の例外がキスの後の朦朧とした状態だったのをスナコはぼんやり思い出す。はっと我に返りまたしてやられた、と俯くと、その瞼にもゆっくり口づけられる。

「あなたの、為じゃないですから」

はいはい、と言われた声には笑いが混じり、結局スナコの小さな逆襲ごと抱きすくめられた。
薄紫の空は傾き夜へとさしかかっていたが、夕食が出来上がるのはいつになるだろうかと肩越しの空をスナコは仰いだ。



fin.

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