ただ、あなたの隣に。

□1.僕らが忘れないだけで
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暗い空が涙をこぼす。
傘をさして、細い小道を歩いていく。生い茂る草むらの中に、それはあった。
傘を持ったまま屈んで目線を揃える。

「先生、怒ってますか?」
問いかけた途端に、大地を打ち付けるように雨脚が強くなる。
「…やっぱり、」

眉を下げて笑った私が、「ごめんなさい」と一言こぼした。
でも、きっとあの人は、私のことを大切にしてくれると思うから。
心の中で呟いてから立ち上がる。

民家がある所まで戻ると、雨は更に強くなって私の不安をあおる。
傘を持っていても風で雨が降り込んで肩や足元が濡れてしまった。
更に雷まで鳴り始めたので、私は民家の軒下を借りて雨宿りをさせてもらった。

「すごい雨です、ね…。」
雨降る目の前の景色を見つめていた視界に入って来た人影に話しかける。
その言葉が最後まで滑らかに出なかった理由は、その相手が知りすぎている人だったから。
紺色の着流し、裾には薄い紫の桜が描かれていた。


「今日は、どうしてこちらに…?」
何年も会っていなかった好きな人に緊張しているのか、上手く声が出せない。

「お前を迎えに来た。」
私が見上げたその顔は、左目が包帯に覆われていて表情を伺うことが出来なかった。



あの日から、何年の月日が流れただろう。私にとって、その長い日々にあなたを忘れた日なんて無かった。
そして、私たちが守りたかった人のことを忘れた日も無かった。
だから、あの人の言葉に背く今日謝るために先生のお墓へとやって来たのだ。

もう少しこの戦いを続けていれば、あと少しの辛抱をすれば、きっとあの人は英雄になると信じていた日々。
あの人を守るために、その日を信じて戦った幼馴染たち。けれど、その日はもう訪れない。


その人はテロリストの汚名には似合わないくらい優しい笑みを浮かべて「あの日みたいだ」と言った。
一向に止む気配の無い雨空を見上げながら、私は隣に居る彼が言うあの日を思い出していた。


その日も大粒の雨が突然襲ってきて、雷に怯えていた幼い私。
母上に遅くなったことを怒られると承知で誰かの家の軒下を借りて雨宿りをした。
強くなる雨が地面を打ち付けて、どんどん不安になっていく。
やはり母の言う通り、今日は外に出るべきでは無かったと後悔していた時。

持っていた本を傘代わりにして、男の子が走り込んできた。
男の子は軒下に入ると、頭の上に本を持っていた左手を下ろし、濡れてぺしゃんこになった前髪を右手でくしゃりと上げた。

「すごい雨ですね、」
「ああ、…こんなモンでも少しは役に立つかと思ったが、これじゃあ何も守れねェ。」
左手に持った本を見つめて呟く男の子に、初対面の私はこう言ったんだ。

「御本は、知らないことが沢山詰まってます。だから、大切にしなさい、って…いつも、母上が。」
その人が怒っているように見えて、私の言葉は後半になるほどゆっくりになる。
でも、その人はフと笑って
「お前だったら、コイツを雨よけにせず、懐に入れて走ったんだろうな。」
と言った。

「でも、俺にコイツは必要無ェ。俺が欲しいのは、沢山の本でも知識でも無く、たった1つの面白いモンだ。」
ずっと、色んなことを知るのが楽しみで、自分で考えて生きるために必要だと思っていた私には衝撃だった。
「この本に、面白い物はありませんでしたか?」
「ああ、つまらん…。本も、毎日も。生き方を決められた武士の長男も。」

小雨になった時、その人は私にずぶぬれになった本を手渡して去ってしまった。
帰り道、この雨で散ってしまった桜を見て、今年も母上とお花見が出来なかったことを残念に思った。

家に戻ると、当然母上に心配された。
「だから今日は出掛けない方が良いと言ったでしょう。」
「ごめんなさい、あのような大雨になるとは思わなかったのです。」
母上は優しく濡れた私の髪を布でふいてくれた。
「出掛ける前はあんなに晴れていたんですもの。それなのに何故母上は分かったのですか?」
「母上の勘です。」
本を読んでいて天候に関することを学んだとか、そのような答えを期待していた私には少し残念な回答だった。
今思えば、その頃から体調を崩していた母上は、天候などに敏感になっていたのだと思う。
私の側に置いてあった本を見て、母上が「これは?」と問う。

「雨宿りをしていた時に出会った男の子にいただきました。」
「まあ、このように大切な物を…。」
母上は、本の大切さを叔父上から教えてもらったと言う。

そこに、「ごめんください。」と柔らかい声が聞こえて来た。その声の主を察した私は、「はい」と言いながら玄関まで迎えに行く。
思っていた通り、そこに立っていたのは黒い髪を高い場所に束ねた少年だった。
週に一度程足しげく通っている桂小太郎さんだ。
「(先ほど雨宿りの時に出会ったあの方も、同い年くらいかな…。)」
母上は身体が弱く、あまり外に出られない。だから私以外の誰かがこの家を訪れることをとても喜んでいた。
「いらっしゃい」と優しく微笑んで、桂さんを招き入れる。桂さんは「お邪魔します」と言って家に上がった。

「先週貸していただいた本を返しに参りました。」
「もう全て読まれたのですか?」
「ああ、私は本を読むことが好きだからな。様々なことを新たに知るのは私の喜びだ。」
桂さんは、裕福な家庭の生まれでは無い。両親が早くに亡くなり、何年か前におばあさまも亡くなられて今は1人で暮らしているそうだ。
近所でお手伝いをしながら生計を立てていると言う。
桂さんは勉強することが大好きなようで、私の家に来ては積まれた本を借りて読んでは持ってくる。
そんな桂さんがこの度、その勉学の才と向上心が認められ、認められた身分、すなわち武家の男児しか通うことの許されていない藩校に通うことが決まったのだ。
はしゃぎはしなかったが、桂さんは大変喜んでいた。

「また藩校でお話を聞かせてくださいませ。」
「夕葉は、学ぶことが好きなのだな。」
「はい、桂さん程ではございませんが、何かを新たに知ることは楽しゅうございます。」

桂さんは多くのことを学びたいと思う一方で、本を買う程の金銭的余裕が無かった。
本は大変貴重なもので、買うことが出来る人など一部だったため、貸本屋というものも存在したくらいだった。
しかし、家に来れば無料で本を読むことが出来る。
噂が噂を呼び、桂さん以外にも何人かが借りに来るようになっていた。
ここでは、お金を貰わずに本を借りる代わりに、私の家庭教師をする、というのが暗黙のルールでもあった。

女に学問など必要ないと言われた時代においては、私の母上や周囲の人々は少し変わっていたようで。
私が本を読むことも、色んな事を知りたいと言うのも咎めはしなかった。
母上のためにお医者様が来れば、それは何だ、あれは何だと問い、大人を困惑させていた。
その生活が続くうちに、お医者様には「免許皆伝したほどだな」と笑われたくらいだった。

私がここまで知りたがりなのには、理由があって。
物心がついた頃に父が居なかった私にとって、叔父上は色々なことを教えてくれる存在だった。
ある日「叔父上は博識ですね」と言ったことがある。
叔父上が私の頭を撫でながら「そうですね、しかし私にもまだ知らない事が多くあるのです。」と答えた。

「人は考えます。でも、何かを考えるためには、沢山の事を知っている必要があるのです。
知っていることは、考える内容を深めます。だから私は知ることに貪欲です。もっともっと知りたいことが沢山あるのですよ。」

そして、考えれば、今は当たり前のことが変わり、出来ないことが出来るかもしれない、と続けた。

「少し夕葉には難しい話でしたね。」
「いえ、つまり…色んなことを勉強して、考えれば、母上の御病気が治るかもしれない、ってことですよね?」
「ええ、そうかもしれませんね。」
「私、沢山知ります。沢山考えます。」

本は、沢山のことを知るための道具だ。出会った事の無い人が知ったこと、考えたことが詰まっている。
だから大切にしなさい、と言われて育ってきた。

だから、先ほどの男の子が「つまらん」と言った事が理解出来なかった。

「夕葉、あの本はどうしたのだ?」
乾かすために、干してあった本を指さし桂さんが言った。
「ええ、先ほど出会った方にいただいたのです。桂さんと同じくらいの男の子でした。」
「…貰ったと申すか。あれは恐らく値の張る貴重な本だぞ。」
それを聞いて、やはり返さなければと思った。
桂さんはため息を付きながら「あのような本を持ち、誰かにあげるような奴を知っている」と呟いた。

「あの御本、お返しします。心当たりがあれば教えていただけませぬか?」
「高杉晋助…。藩の中でも重鎮と言われている役人、高杉家のご子息だ。」
その名前を心の中で反復する。高杉晋助…、これが私と彼の出会いだった。









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