ただ、あなたの隣に。

□1.僕らが忘れないだけで
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後日、晋助様にお礼を言って本を返すと、「面白かったか?」と尋ねられる。私は小さく「はい」と返した。
「(…喜ばなかった、か。)」
「きっと、姫様は右近の少将と一緒に居られて幸せだったと思います。それにずっと愛されて…。
…でも、その裏に誰かの悲しみがあって良かったのでしょうか。」
「悲しみ、は、……その継母たちのことか。」
私が頷いたのを見て、「復讐されて当然だ、それだけ酷いことを落窪の姫君にしてきた。」と言う。
「もし、俺が右近の少将で、お前が落窪姫なら、きっと復讐をするだろうよ。大切な人を傷つけられたら、誰もが鬼になる。」
「鬼に、…?」
「…いや、悪い。こういう話、女は好きだって聞いたから、喜ぶと思ったんだ。」
晋助様は、私の頭にそっと手を置いて「お前は普通の女とは違ったな」と笑う。
「それ、少し傷つきます…。」
「悪ィな。普通の女と違って、…そうだ、優しすぎるんだ。」

晋助様が帰ってから、家で寝ている母上の近くに座る。苦しそうな母上を見て、母上を苦しめているのが御病気などで無いならば、と考えた。
例えば、母上とお付き合いのある奥様たちにいじめられていて、それが辛くて死んでしまったら…?
あふれる悪い想像で、背筋が凍るような想いがした。母上をいじめていた奥様たちの笑う顔が浮かんだ。
もし、そんなことが起こった時、私も鬼になってしまうのだろうか。きっと、憎いと感じるだろう。

他にも大切な人は居る。叔父上が異国に渡ろうとして、投獄されて傷つけられたら…。
もしも、過去の時代のように戦が起こって、その中で晋助様や桂さんが負傷したら…。
"もしも"を考えていたはずなのに、苦しくて自分の身体を抱きしめた。私、こんな感情知らなかった。きっと、あの物語を読まなければ知らなかった。
恐ろしくて、もうそんな事を思い浮かべたくなくて、私はこの事を少しでも前向きに捉えようと必死だった。
「(やはり、本は色々なことを教えてくれる。あの本との出会いは、きっと私が人の気持ちを考えるのに必要だったのだ、)」
でも、自分の中で、このモヤモヤとした感情を消すことは出来ない気がした。私は、翌日叔父上の元を自ら訪れた。

私が先日、迎えをよこしても来なかった事には触れず、「どうしました?」と優しく問いかける。
私が落窪物語を読んだこと、そこで考えたことを述べると、叔父上は「やはり、夕葉は他の女の子とは違いますね。」と笑った。
「叔父上、それは褒め言葉でしょうか?少し傷つきます。」
「ええ、褒めているのですよ。ただ誰かに助けられて、復讐を遂げた主人公を羨ましく思うのではなく、他の人のことを考えられる。
本来、物語とは主人公に自身を投影して読むものなのです。だから、主人公以外の人物に視線を向けられる夕葉は非常に視野が広い。素晴らしい事です。」
尊敬する叔父上に褒められ、嬉しくなる。いつか、叔父上が言ってくださったように、私は少しでも色んなことを学んできたのだろうか。
「人間は自分や、自分の周囲が可愛いものです。だから、争いが起こってしまう。でも、それでいいのですよ、きっと。それが感情というものです。」
叔父上は視線を伏せて言う。何かあったのだろうか、と不安になった。叔父上?と問いかければ、何でも無いですよ、といつも通り笑ってくれる。

「本を読んで怖くありませんでしたか?」
その問いかけに、私は困ってしまい、少し眉を下げて無理に笑った。
「本を紹介した相手を嫌になりませんでしたか?」
「いいえ、晋助様は私の大切な人です。嫌いになどなりません。それに、叔父上にも褒めていただけたもの。こうやって考えることが必要だったのです。
だから、この本との出会いには感謝しなければなりません。もちろん、紹介してくださった晋助様にも。」
そんな私を見て、叔父上は微笑んだ。


「落窪物語は面白かったですか?」
「はい、少し怖かったけど。」
「これからも物語も読んでみなさい。そこにも、きっと知らない人生経験があります。
良い物語とは、読んでいると、自分がその場に居るように錯覚するものです。本の中に居る多くの登場人物に出会い、沢山のことを吸収しなさい。」





家に戻ると、晋助様が待っていた。謝る私の声をかき消して、「今日は源氏物語を持ってきた」と言う。
「源氏物語って、平安時代の大変貴重なお話ですよね?」
「ああ、一緒に最初から読もう。お前と読めば、きっと面白い。」
晋助様がニッと歯を見せて笑う。あの、晋助様が"私となら、面白い"と言ってくださった。奥様が仰った通り、少しこの人の世界を変えることが出来たのだろうか。
「はい!」と喜びいっぱいに返事した私を見て、また優しく笑ってくれる彼が好きだ。
私はこの笑顔をずっと見ていたい。ああ、やっぱり、私だってこの人の笑顔を奪う者が居るならば、それを憎むだろう。それは大切な人と紙一重にあるものなのかもしれない。




それから、数週間のうちに母上は亡くなった。少しずつ衰弱する母を1番近くで見ていて、分かっていたはずなのに、涙が止まらなかった。
胸も喉も苦しくて、呼吸もうまくできなかった。それから、涙が枯れ果てれば、今度は心が空っぽになった。
ほとんどお話が出来なくても、ここにはいつも母上が居てくださったのに。誰も居ない部屋は恐ろしかった。
すぐに、叔父上が一緒に暮らそうと言ってくれた。私はまだ子どもだから、そうするしか無いと分かっていても、すぐにこの家を出ることは出来なかった。
「(可笑しいな、私…。こんなにも何も無いと感じるのに…。)」
畳の上に大の字で寝てみる。こんな事をすれば、いつだって母上が「はしたないことをしてはいけません。どんなに取り繕っても、普段している事は出てしまうのです」と叱る。
でも、次には「貴方は、どんなに身分の高い女性にも負けない強さと美しさを持った女性になりなさい。夕葉なら、なれるわ。」と優しく微笑むのだ。
そんな声は、もう二度と聞くことが出来ない。そう思うと、涙がこぼれて、目の横へと落ちていく。

母上は最後に、「どんなことがあっても、夕葉の持っている強い想いを曲げないで。芯の強い女性になって。」と言葉を残した。

そうしていると、玄関から声がした。私は慌てて起き上がり、手櫛で髪を整えて、玄関に向かう。彼は泣いていた私の顔を見て、ハッとした後、「散歩に行くぞ。」と無理に腕を引っ張った。
「ごめんな、すぐに来てやれなくて。」
自然と手を引っ張りながら、私よりも少し前に居る彼に「晋助様が謝ることなど何も…」と呟けば、その言葉は許されなくて。
「あるさ、一番辛い時は大好きな人に居て欲しいだろ?」
自分でそれを言ってしまうのね、なんて思いながら、笑う。でも、ここ数日で笑い方を忘れた私は、眉を下げて無理に口角を上げる。これ以上眉が下がれば、また涙が押し出されそうだった。
「私、ひどい顔してます。」
「いいや、大切な人を失って泣くのは当然だ。お前は無理する傾向にあるからな。思いっきり泣け。」
立ち止まった先に、大きな木がそびえ立つ。確か、この木は、晋助様と出会った雨の日に見上げた桜だ。
顔を上げて、また頬を涙が流れ落ちていく。
「母上と、お花見をしようって約束致しました。私の一番好きな桜を、大好きな母上と見たいって。」
でも、それは叶わなかった…。喉から押し上げてくるかたまりを知ってか知らずか、ふわりと私を包み込む。
「これからは俺と見よう。お前が好きな桜を。」
「毎年?ずっと?」
「ああ、そうだ。毎年、何度だって見よう。」
「…私、一番好きな花を、一番好きな晋助様と見たい。」
彼の身体が、驚きを隠せず大きくはねる。それを見逃さず、離れないように彼を抱きしめ返した。

「これ、受け取って欲しい。」
身体が離れた時、晋助様の手のひらに乗っていたものは桜の平打ち簪だった。大きく美しい桜に、繊細な蝶のモチーフが下がっている。
「これを、私に…?」
勿体ないくらい素敵な簪に気後れしてしまう。
「ああ、お前じゃなきゃ、こんな事しねェ。俺はお義母さんと約束した。お前を守るって。だから、これを受け取れ。」
「はい。」と受け取って小さな手に握る。また感情があふれ出す。「そんなに嫌だったか?」と慌てる彼に、「嬉しいです。」と涙をぬぐいながら笑顔を見せた。












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