ただ、あなたの隣に。

□4.僕らが見つけたふたりの出口は
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彼は必死で目を逸らす私の手首を掴むと、雨の音が響く床に私を組み敷いた。
「嫌なら抵抗しろ。俺を突き飛ばして、雨の中外を駆け抜けて逃げろ。そうしたら、もう俺はお前を追わねェ。」
「………、」
もう、目を逸らす事は許されなかった。
心臓が早鐘を打つ。あの人に惹かれながらも、ずっと感じることの無かった、理性を溶かすような恋心に支配されていく。
こんなはずじゃなかった。幼い頃は貴方のお嫁さんになることが夢でした。互いを引き離されても、どちらかがくらいついて行った。でも、ある時からその夢を諦めた。
それでも、貴方を忘れることなんて出来なかった。その中でやっと見つけた大切な人と生きていく。そう誓ったはずだった。
あの時も、あの時も、あの時も…、私達が見つけた筈の出口は、絶対に今日とは違っていたのに。

流されてしまいたいと思う。

このまま、彼に。抱かれてしまいたい、と。

揺らぐ瞳で彼を見つめると、彼も同じような表情をしていた。罪悪感と本能的な愛情と。深く口づけられて、彼の手が帯紐を解いた。帯が緩むと、着物の合わせから懐に仕舞っていたものが高い音を立てる。
「………これは、」
彼は目を見開いて、その落ちた簪を見た。

「俺も散々嘘をついたが、お前も大概だな。何が心を決めた、だ。こんなモン、未だに持ってんじゃねーか。」
「……、」
「何が変わった、だ。何も変わらねェ。お前は今でも、」
「そうです、何も変わらない…。私だって、ずっと、ずっと、忘れることなんて出来なかった。でも、あの人は私に、それでも良いって言ってくれた…。」
「………、」
意地を張っていたのに、それが全て解かれたと同時にぼろぼろと涙が落ちた。ぐちゃぐちゃだ。今でも好きな初恋の人を前にして。それでも、私は、あの人を裏切ってはいけない。分かってる。頭では分かってるのに、心がそれについていかない。

「例え私があの人を一番に愛していなくてもいいからって。こんな私を愛してくれたから………」
酷い顔を見せたくなくて、顔を覆った。ひんやりとした指輪が触れる。
ああ、そうだ。私はあの人と婚約をしていて、他の男の人とこんな場所で二人になってはいけなかったのに。

「………悪かった。」
「え、」
「分かったから、もう泣くな。言ったろ、俺はお前に笑ってて欲しかった、って。お前がその男の隣で笑えるってんなら、もう追いかけねェ。」
分かっていたはずなのに、その言葉が心に突き刺さった。
「だから、今は………」
身体を起こされ、そっと抱きしめられる。温かさに包まれて、晋助様に初めて抱かれた時を思い出した。あの日もこんな風に、最後だって言いながら執着して。最後の最後まで抱き締めてくれていた。
「(今だけは…、これだけは、……)」
雨が止むまでは。彼の腕に包まれることを許してください。
雨が止んだら、その時はあの人の婚約者に戻るから。


子どものように背中と頭を優しく撫でられて、私はその手に安心してしまった。いつも、晋助様の手は私を心地良くしてしまう魔法のようなものがあって。いつも、それに甘えて微睡んでしまうのだ。

「………、」
意識がぼんやりとする中、彼がため息まじりにこう言った。
「だから、心に決めた男以外に隙なんざ見せるなって言ったろーが……。襲っちまうぞ、……。」
「ん、………」
「お前は変わらねェが、俺は、………あの頃よりもずっと悪い男になってんだぜ、………お前を無理矢理攫うことくれェ………。」


これは夢だろうか、………
だって、みんなの笑い声が聞こえる。
「夕葉、今晩の飯は宇治銀時丼だよな!!」
「ンな甘い夕食があるか!!」
「お前達五月蝿いぞ。夕葉、今晩は蕎麦が良いな。蕎麦の気分だ。」
「ヅラ、テメェは毎食蕎麦だろーが。」
「そういうお主も、毎度毎度粒あんを希望しているではないか。」
「あー、もうッ、今晩は蕎麦では無いし、夕食にあんこなんてあり得ません!!!」
滅茶苦茶な人達だったけど、毎日同じやり取りでも楽しかった。
「今日も揉めているのですか?」
「叔父上、」
「………おや、夕葉。顔がニヤけていますよ。」
「…騒々しいですけど、…………でも、幸せだなって、思ってしまって。」
この時間がいつまでも続いてほしい、と。思ってしまうんです。
「夕葉は、自分が幸せになることを優先して良いと思いますよ。誰が傷付くとか、こうすべきとか。それよりも気持ちに素直になってみて、いいと思います。今、どうしたいですか?」
「私がどうしたいか、………」
「あなたは、賢いですからね。頭で考える。でも、心で感じることも大切です。だから、ほら。今どうしたいのか。素直になってみてください。」


暖かい日差しに照らされて目を覚ました。
目の前に、彼の顔がある。
「(温かい…、ずっと、ただ抱きしめていてくれたんですね。)」
怪我をして包帯の巻かれた左目にかかった前髪をそっと梳くと、そのまま右頬に触れた。
私が触れても彼は、小さな寝息をたてて眠ったままだった。

「(…こんなに無防備でいいんですか?)」
今も彼は戦場の中に居るはずだ。なのに、こんなに…
「私に刺されても知らないんだから。」
物騒な事を呟いてみるけど、そんな事が出来るはずも無かった。

大奥を出てから初めて知った異国の物語がある。人魚姫は、王子様を刺せば助かる事が出来た。
でも恋した王子様を殺す事なんて出来なくて、自らが海の泡となって消える事を選んだ。
「(…きっと、私もそうするだろうな。)」
今でも、こんなに愛おしいのだから。彼が他の女性と笑い合っていたって、その笑顔が来年も再来年も、ずっと続くならそれでいい。
それでいい、けど…、我儘が叶うのなら、彼の隣に居る人が私ならどんなに嬉しいだろう。


「好き。」
眠った彼に聞こえないように、そっと呟く。
「今でも、大好きです。生涯、あなた以外の人を、あなた以上に愛す事なんて無いと思う。」

大好きな人の頬に触れる、私の左手には指輪が光る。

「けど、……」


夢の中で叔父上が今よりも幼い私に言った言葉が響く。
―今、どうしたいのか。
―素直になってみてください。







雨が降る中、晋助様のぬくもりに包まれながら、この雨が止んだらあの人の婚約者に戻ると誓った。

空は晴れ渡っている。昨日の土砂降りなんて無かったみたいに、青空が広がっている。
そうだ、土砂降りの夜なんて無かったのだ。

きっと、ここで離れたら。今度こそ、もう生涯会う事は無いと思う。
でも、私はこの人の事を生涯一番好きだし、今日の事も…
どれだけ無かった事だと掻き消そうとしても、生涯忘れられないのだと思う。

「……晋助様なんて、大嫌いです。強引で、自分勝手で。ズルくて。矛盾だらけで。」
何度嫌いになりたいと思ったか分からない。
それは出来なかったけど、今では嘘を吐けるようにはなったから。

「だから、さよなら。晋助様も、こんな女嫌いになって忘れてくださいね。」

本当は、いつだってあなたに嫌われる事だけが怖かった。
でも、もう会う事なんて無いのだから関係無い。
そう言い聞かせても、涙が溢れそうだから。

私は、衣服と髪型を整えて足早にその空き家を出た。


これが、ふたりの出口なのだ。過去の初恋の、出口。私達が見つけ出した、"今"だから。






「……矛盾してんのは、テメェだろーが。」













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