ただ、あなたの隣に。

□1.僕らが忘れないだけで
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母上が久しぶりに「今日は外に出れそう」と言ったので、喜んで連れだした。
雨が降り続いた翌日。少し蒸し暑い日のことだった。
お寺の近くに紫陽花が咲いている。昨日までの雨粒を花弁に乗せて、それを太陽が光らせる。
「綺麗ですね。」
「そうね、」
「母上は紫陽花が好きですか?」
「ええ、とても。」
「母上は何の花が1番好きですか?」
「…何が好きかしら。夕葉は?」
「私は、桜が1番好きでございます。今年は雨で早く散ってしまいましたが、来年は母上とお花見がしたいです。」
「私も。」と言ってから、母上が咳き込む。
そろそろ帰りましょう、と言えば、母上はまた何度も謝った。
「何故謝るのですか。」
「あなたには迷惑かけてばかり…。」
「迷惑などと思ってはいません。母上は、私の大切な方です。こうやって側にいるのは当たり前です。私は、大丈夫です。だから謝らないでください。」
精一杯気持ちを伝えたつもりなのに、母上はあまり嬉しそうじゃなかった。そして、咳が酷くなる。私は、道端で母上の背中を擦ることしか出来なかった。
母上の目から涙が溢れる。それは苦しかったからなのか、私が傷つけてしまったのか分からない。

すると、前方から知った顔が駆けてくる。
「大丈夫ですか??」
スッと母上の前で手を伸ばす姿はやはり気品があった。
「晋助様…。」
「夕葉は家から水をとって来い。俺がここでお前の母上の側にいる。俺ではお前の家の勝手が分からん。早く行け。」
「はい!母をよろしくお願い致します。」
軽く頭を下げて、すぐに家まで走る。水を汲んで、母上の元へ持って行くと、晋助様はずっと母上の背を擦ってくださっていたようだった。
水を飲んで落ち着いた母上に、「ゆっくり帰りましょう。」と言って、一緒に支えてくれた。
母上が布団で眠る。その間に食事の支度をした。

「お前、こんな時くらい、母親の側に居てやれ。」
「しかし、私がしなければ食事も洗濯も誰もする人はいません。」
「ガキはガキらしくしてろ。」
「4つしか変わりません。」
母上にも同じことを言われたのを思い出し、何故か鼻の奥がツンとする。それを拭うように、私は揚げ足を取る。

「この歳の4歳差は大きいだろう…。…いや、俺のことはいい。言いたいのは…、その、素直に母に甘えろ、ってことだ。」
「甘える、……」
その言葉を反復しても、その方法がわかるはずもなかった。

私は、手をぎゅっと握りしめて俯くと、「分からないです」と素直に伝える。
「何が、…分からないことは知ればいい。お前ならそう言いそうなのに、らしくねェ。」
「じゃあ、教えてください。子供らしいってなんですか??」
鼻の奥をツン、ツン、と刺がつく。溢れだしてしまいそうな何かを抑えてる。
「どうやったら、甘えられますか??」
晋助様は困った顔をして、一度目を逸らすと。
「こう、だろ。」と小さな声でつぶやいて、そっと私を上から包み込んでくれた。そして、片手を背中に添えて引き寄せながら、反対の手を頭を撫でてくれる。
溢れ出しそうな何かがついに限界を超えた。

いつもなら、困って「泣くな」って言いそうなのに、「それでいい。」と言ってくれる。
私は、その安心感から、涙と同時に色んな思いを開放した。
「母上が大好き。つらそうな母上を見ると苦しいです。でも、私がそんなこと言ったら、母上はきっと無理をなさるでしょう?」
「あァ、そうだな。」
「それに、苦しそうって言ったら、それが本当になる気がして…。もっともっと母上が苦しくなって、それで、居なくなっちゃう気がして…。」
「悪かったな、」
「何故、晋助様が謝るのですか?」
「さっきは、お前の気持ち考えずに言った。だから、これからは俺に甘えろ。」
そう言いながら、晋助様の腕に力がこもって、更に距離が近くなる。同時にぎゅっと、胸のあたりが鳴ったような気がした。

「…あと、俺の母親も、お前が甘えてくれたら喜ぶ、多分。」
晋助様は照れ隠しにちょっと上を向いて言う。
「奥様は優しいから。でも、私は、晋助様が居れば十分です。」
「そ、そうか…?」
「はい、晋助様が大好きです。」
その瞬間に、身体が引き離される。晋助様の顔は、今までの照れた時とは比べられないくらい真っ赤に染まっていた。そして、すごく驚いた顔をしている。
「何かおかしなことを言ったでしょうか?」
「…………お前、誰にでもそんなこと言うのか??」
「いいえ、本当に大好きと思える人にしか言いません。母上と、叔父上。それから、奥様と晋助様。」
「そ、そうか………………」
晋助様は急に気まずそうに、視線を逸らす。
私が首を傾げたのを見て、呆れたように笑った。


「邪魔するぞ、夕葉。」
そう言って家に上がってきたのは、桂さんだ。
「ヅラ、何でお前がここに居るんだよ。」
「ヅラじゃない、桂だ。ここ数年、本を借りに来ているのだ。」
私が「毎週一度は来て下さるのです。」と付け足せば、晋助様は「俺より多く会ってるじゃねーか…」と不満をこぼす。

「母上は今寝ているのです。折角桂さんが来てくださったのに、」
「家族ぐるみの付き合いかよ…」と晋助様が頭をかかえる。桂さんはフンと鼻を鳴らし、私の母が桂さんが来ることを楽しみにしているのだと自ら伝えていた。

「おぼっちゃまは帰る時間じゃないのか。また父上殿に怒鳴られるぞ。」
「分かってるよ。じゃーな、夕葉。お前の母親が元気になったら、また遊びに来い。…………それまでは俺が会いに来る。」
私の前髪をクシャリと撫でながら、それを言い残して、晋助様は帰られた。
最近は会えていなかったから、また来てくださると思うと自然と笑みがこぼれてしまう。
撫でられた髪に触れながら、私の頬は少し温かくなった。

桂さんも少しだけ話をすると帰ってしまった。
「もう帰ってしまわれるのですか?」と尋ねると、母上の容態を気遣う様子を見せてくれる。
「それに、俺が長居すると嫉妬するヤツが居るようだからな。」
それでは、本を借りる、また来る、と伝えて桂さんも去っていく。

静かになった家で、母上の隣に座る。
疲れが出たのか、熱があるようで、とても苦しそうだった。おでこに乗せた手ぬぐいを冷たい水に浸して絞る。それを再び、そっと母の額に乗せた時に、母上がゆっくり話し始めた。
「先程の方が、高杉様のところの子ね。」
「はい、晋助様です。それに、桂さんも来てくださったのです。」
「ええ、声が聞こえたわ。」
「そうだったのですね、母上は眠ってらっしゃると思っていました。それなら、声をかけてくだされば…。」
「あなたたちの声を聞いていたかったの。とても楽しそうだった。安心したわ。」
私は、母上の安心という言葉が引っかかった。でも、怖くて深く聞けない。

母が微笑んで私の頬を撫でる。
「私ね、今まで夕葉は、桂さんと一緒になると思ってたの。2人は同じように学問が好きで。時には思うことをぶつけあって。とても、お似合いだと思ってたわ。」
お似合い、一緒になる、その言葉を繋げ合わせると、母上が言いたいことはきっと、私が桂さんのお嫁さんになる、ということだろう。
「でもね、この間まで高杉様の家に通う貴方はとても楽しそうで。きっと、奥様が良くしてくださるからだと思ってたけど、違ったみたいね。」
母上は、私の頬にかかる髪を梳きながら。

「あの子はとても優しい子だわ。だから、貴方の想う事をしっかり受け止めてくれるだろうし、貴方の苦しみにも気付いてくれる。夕葉に必要なのは、そんな人なのね。」
「私など、晋助様には似合いません…、」
「いいえ、あなた方はお似合いです。きっと、周りは皆そう言います。今に身分なんて関係なくなるわ。貴方が言うとおり、色んな事が少しずつ変わってるんですもの。」

晋助様が大好きだ、この胸のあたりがぎゅっとなる気持ちを知ってしまった私は、あの人の側に居たいと願う。
「私、晋助様に似合うような人になれるでしょうか…。母上や奥様のような素敵な女性に…。」
「なれますよ。だって、私の娘なんですから。」

そんなことを言うなんて、恋しているのね。そう言って笑うと手を伸ばして頭を撫でてくれる。
恋…?恋って何ですか?と尋ねれば、特別なこと、特別な人と居ると身体があったかくなるのよ、と教えてくれた。

「(温かくなる…、)」
先ほど感じた頬の温かさ、今感じている温かさ、これが晋助様を想う気持ちを表している。
これが恋なんだ、晋助様は多分、母上や叔父上に対する大好きとは違う。特別な存在なんだ。

母が嬉しそうに、どんな夫婦になるのかしら、どんな家庭で、子供は…なんてこぼす。
母が描く私の未来に、母上自身はいるのだろうかと不安になる。

「その時は、母上が色々教えてくださいね。祝言の時はどんな事をするの??赤ちゃんを育てるのは大変??
ずっと旦那様の側に居るためにはどうしたらいい??母上が教えてください。」
そう言っているうちに、涙がこぼれてくる。母上は困ったように眉を下げて笑うとゆっくり首を横に振った。
「どうして?」という問いかけに、明確な答えをくれなかった。

「夕葉が甘えられる人が居て嬉しい、」
その言葉を聞いたら、母上がもう自分が居なくても大丈夫、と言っているような気がして。
そんなことは無いと伝えたい、母上には一緒に居て欲しい、と思うのに、何故かそれをはっきり言えなくて。

「私、母上に我儘を言ってもよろしいですか?」
「何でも言ってみなさい。」
「お花見がしたいです。私の大好きな桜を、大好きな母上と見たい。」
その言葉には、躊躇いながら頷いてくれる。この約束を何度も何度も、毎年繰り返そう。
そう思っていたのに、その日は来なかった。









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