ただ、あなたの隣に。

□5.あの日手放したものが
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空き家を出ると、青空が眩しく煌めいている。
でも、空はこんなに晴れ渡っているのに足元は雨でぬかるんでいて。
咲き乱れる紫陽花の花は雨粒で着飾る。


湿った雨の匂いがする。
昨晩が嘘などでは無かったと訴えるみたいに。
そして、その雨の匂いにふと交じる大好きな人の香りが鼻腔をくすぐった。

一晩中抱きしめていてくれた腕のぬくもりを思い出して、早くこの場所を立ち去りたいと思った。
どこに行っても、どんな季節にも私の中にはあなたとの思い出しかない事を知りながら。



時間の流れと一緒に、この想いも褪せてしまえば良かったのに。
遷りゆく色の紫陽花のように。
じわりと滲みそうになる涙を振り払って、前に進む。

もう一度、叔父上のお墓の前に立った。
「…叔父上、私帰りますね。」
大切な人が待っているから。
ここに長く居れば居る程、大好きな人を期待して待ってしまいそうなんです。


あの頃は無かった電車に乗る為に、駅に向けて歩き出した時。

「夕葉。」
「………どうして、」
目の前で大好きな人の声が再び響く。
墓地を出た先の、家の軒に背を持たれさせている人が居る。
驚きのあまり後退った足が水たまりに触れて、水を弾いた。


「…もう追いかけないって言ったじゃないですか。言ってる事とやっている事が滅茶苦茶です。」

「……夢を見たンだよ。」
彼は呟いた。
それは、先生が「自分の心に忠実に生きても良い」とおっしゃる夢だったそうだ。


「何度も諦めようとした。"こっち"に踏み入れたらダメだって、昔の俺が言うんだよ。お前だけは染めちゃいけねェって。先生も、そう言うと思ってた。
けどよォ、俺ァもう好きな女の幸せを願って、自分の一番欲しいモンを手放せる程"いい子"じゃねェんだ。会わない間に悪い男になってンだよ。」

その瞳に私を映して、ニヤリと笑う。確かに彼は、昔の彼じゃない。けど、
「…あなたは、昔から"いい子"なんかじゃありません。」
「それもそうだな。」
格好を付けて、煙管をふかせるとそっと反対の手を差し出した。
「テメェもそうだろ。もう、"いい子"ちゃんなんかじゃねェ。人が折角用意した家を抜け出し、裏切って大奥に入り、好いた男が居ながら婚約して、婚約者が居ながら他の男と一晩を過ごした。」
「変な言い方しないでください。」
昨晩は何も無かったのに、既にあの人を裏切ってしまったみたいに。


「ほら。この手を取ったら、俺はお前を一生離さねェ。絶対に手放さねェ。それでもいいってんなら、自らこの手を取れや。」
「攫ってくれたら言い訳できるのに、…やっぱりズルいですね。」
「ああ、ただし、お前がこの手を取るなら、絶対お前を1人にしないと誓う。どうだ、いい取引だろうよ。」
「……取らなかったら?」
「そん時は、奪うまでだろーよ。例え、お前が俺を大嫌いだろーがなァ。」
「…どちらにしろ、選択肢なんて無いじゃない。」
眉を下げて、困り顔で言ってみるけれど。

目の前の大好きな人が、こうやって私を奪いたいと言ってくれた時点で私の答えは決まっていたのだと思う。
心の中で、今更、と悪態をつきながら。
いや、きっと元々"今更"なんて無かったのだ。例え、これが何年先の出来事だったとしても私は全てを捨ててでも、この人の手を取っていたのかもしれない。
だって、…あの頃から私の想いは変わらないから。この人が好きだ。彼が向かう場所が地獄だとしても、私は彼に付いて行く。

「来年は、…一緒に桜を見れますか?」
遥か昔にした約束を、思い出す。風が吹いて、木の葉が揺れる音がした。もうとっくに葉桜になってしまった木を見上げて言ってみる。
聞きたい事は他にも沢山あるけれど、…

「…桜の時季には、地球に戻ってくるとするか。」
「来年も、再来年も、その先も?」
「テメェが嫌って言おうが、飽きたって言おうが、一生。毎年一緒だ。」
「今度こそ、約束ですよ。晋助様。」

その約束で、今は十分だった。
私はやっと、大好きな人の名前を口にする事が出来た。

「取引成立だ。」


あの日手放したものが、この手に戻って来た。
初恋も、素直な言葉も、約束も。

差し出された手を無視して、私はそのまま抱き付いた。
「はしたないですか?」
「いや、俺もこうしたかった所だ。」
煙管を持たない手で、私を強く包み込む。

例え、誰に許されなくても。私はやっぱりこの人と生きていきたい、と思った。
例え、誰が不幸だと言われたとしても。私は、この人と居られたら普通の幸せなんて要らないって。


どちらともなく、唇が触れ合う。初恋の、あの頃の甘酸っぱさとは違う、キセルの苦みが口に広がった。




手を引かれ、当然のように昨晩過ごした空き家に戻る。
「晋助様?」
「夜中には地球を発つ。もう1日、ココに厄介になるぞ。」
「はい。」
晋助様は当たり前のように、家に鍵をかけた。彼の立場上、警戒しての事だろう。
1日ココに、…なんて言われても、少し手持無沙汰だ。何を話せばいいのだろうか。
聞きたい事は沢山あるはずなのに、言いたい事だっていっぱいあるのに。
どうしていいのか分からない。

キョロキョロと周囲を見渡していると、後ろから煙管の香りに包まれる。
「あ、あの晋助様。何をして過ごします?」
「あ?」
昨夜も、こうやってこの人の腕の中に居たはずなのに、拒む事しか考えていなかった時と違って何だか恥じらってしまう。
「私、また晋助様の三味線が聞きたいです。探したら琴もありますかね。そうしたら、私…」
「俺ァ、もうそんな余裕無いんだがな。」
「えっと、…ひゃッ!」
耳にそっと口付けをされると、驚いて変な声が出てしまった。
「一晩中、好きな女を抱きしめて手を出さなかった事を褒めて欲しいくれェだ。」
「あの、それって…、」
今から起こる事を聞き返そうとすると、今度は首筋に唇が触れて、またピクリと身体が反応した。
沢山のキスを降らせながら、ゆっくりと帯がほどかれる。着物に覆われていた身体が解放されて、肌が見える面積が増える度に、またそこに唇が触れる。
首筋から、鎖骨に。鎖骨から、肩口に、肩口から、胸元に。
「やッ、晋助様…、待ってください…ッ、」
「本当に、嫌か…?」
「嫌じゃ、…無い、…ですけど、…まだ朝ですし、…」
着物を握りしめて胸元を隠しつつ、視線を逸らす。
「朝だろうが、昼だろうが関係無ェ。俺は今すぐにお前が欲しい。」
本当に、強引な人だ。晋助様は私の両頬をその手で包み、熱っぽい隻眼で見つめる。
美しい獣のような欲情した表情に、私の心が溶かされていく。
「でもッ、…その、…私、あの時みたいに若くないから、見られて、幻滅されたらどうしよう、って…」
恥じらいながら一生懸命言った言葉を、その人は鼻で笑う。
「ンな心配すんな。」
「だって、…こんなに明るくて、」
「まだ口答えするのかよ、…その口塞ぐぞ。」
宣言してすぐに、深いキスをされて何も言えなくなった。
熱い吐息が重なって、愛おしくて涙が出た。
「悪い、…余裕無さすぎたか?」
痛いのか、と彼が私を心配する。私は、首を横に振って、「嬉しくて、」と呟いた。
「テメェは、どこまで俺の理性を奪うんだよ、…どうなっても知らねェからな。」








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