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□2007/10/09 氷室
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←氷室×あなた→
少女がトリマーになりたいと氷室に伝えてきたのは三年生に進級したばかりの四月のこと。
進路指導室で瞳を輝かせて、
「ペット専門の美容師になりたいんです!」
そう言ったことを、半年たった今でも氷室は覚えている。
当時の少女の瞳にかげりはなく。
声はどこまでも澄んで、迷いは見られなかった。
学年一の成績を誇る少女の進路が、進学ではなく就職に向けられていたことに多少なりの驚きはあったが。
「自分の信じる道を目指しなさい」
氷室はそう言ったのだ。
それからの少女の行動は見事なもので。
担任の氷室が調べる前に、自分から養成学校のパンフレットを用意し、見学も予定していた。
私生活でも。
「近所のお姉さんがトリマーの仕事をしているので、お手伝いさせてもらえることになったんです」
バイトをあっさりと決めてきていた。
少女は夢に向かって進んでいる。
(そう思っていたのだが…)
「顔を上げなさい」
氷室は冷たい声で少女を呼んでいた。
場所は進路指導室。
夢を語った半年前と同じ場所。
あの時の少女は笑っていたのに。
(今の君に笑顔は無い)
数分前に飛び込んできた少女は、働いていたバイト先で感じたことを話した。
つらかったこと。
悲しかったこと。
切なかったこと。
人の心の裏面。
初めてそれに触れたように傷ついていた。
だからこそ。
「離れなさい」
氷室は自分の胸で泣いていた相手に言った。
びくりと少女の肩がふるえる。
「・・先生・・」
今にも消えそうな声。
(…………)
氷室はわずかに奥歯を噛むと、離れようとしない少女の両肩をつかんで押した。
強制的に二人の距離が生まれる。
氷室は少女の瞳をまっすぐ見つめながら言った。
「君の夢には"夢"しかないのか」
"夢"とは理想のこと。
「君はトリマーという仕事が、ただ動物を美しくするだけのものだと思っていたのか」
咬んでくる犬などいないと。
文句を言う客などいないと。
「本気で思っていたのか」
緑色の双眸で睨むと、少女の肩がまた揺れた。
「思っては・・いません・・っ」
涙をこぼしながら言う。
それでも氷室に容赦はなかった。
「ならばなぜ泣く。なぜ落ち込む」
「それは・・」
「君はプロを目指しているのだろう? たとえ今の状態がバイトだとしても、そのようなことは客には関係ない。年齢も経験も噂も、初対面の相手にはどんな意味ももたない」
客が求めるのは結果のみ。
「君は結果を出せなかった。それだけだ」
「・・っ」
少女の瞳がゆがむ。
もっと泣きそうになる。
「…やるべきことはわかっているだろう」
氷室は少女の肩から手を離して言った。
「自分を磨くのみだ」
それしかないと氷室は考える。
どんな不利な状態でも。
相手にすべての非があったとしても。
「仮にも君は金銭をもらってその場にいるのだ」
飼い主はそれを見て、自分の大切な家族を連れてくる。
信用して、預ける。
「それを裏切ることは許されない」
「・・っ・・っ」
声を出さずに少女が泣いていた。
少女の上履きに、こぼれた涙が落ちる。しみをつくる。
「行きなさい。中途半端にやめるならばそれも結構。進路のことは私がご両親にお話しよう」
それだけ言って。
氷室は進路指導室を後にした。
ふりかえらなかった。