GS

□2007/10/09 氷室
2ページ/2ページ

氷室が室内を後にしてから数十分。


なかなか少女は出てこなかった。


(…まだ、泣いているだろうか)


氷室は資料室の中で白い壁を見つめていた。


そっと、手のひらをあてる。


(泣いて、いるか…?)


眉をわずかに寄せながら、心の中でつぶやいていた。


壁の先には少女がいる。
氷室は職員室にはもどらずに、そっと隣の資料室に入ったのだ。


なぜか。


(君が心配だからだ)


自分の言葉はきつくなかったか。
少女の傷をえぐらなかったか。


そんなことが頭をめぐっている。


(君の気持ちは痛いほど理解していた)


常識のかけらさえない飼い主。
それに育てられた狂犬。


(君に非があるわけがない)


氷室は思う。


「…本当は君を抱きしめたかった」


口に出すと、思いが体に宿るようだった。


ふと思い出すのは、さきほどの少女の風情。


うなだれた首の細さ。


ふせた睫毛の影。


スーツごしの胸元に感じた、相手の頬はじんわりと熱くて。


すべてを自分の両腕で囲ってしまえば、どれだけいいだろうと氷室は思っていたのだ。


「だが…それは違うだろう?」


男として。
抱きしめることはできる。


恋するまま。
愛するまま。
相手に優しくすることはできる。


それは少女の傷をいくらか癒すだろう。


(だが私は教師だ。君に恋する男である前に担任なのだ)


生徒を導くのが自分のつとめ。
優しく接して、その場にとどまらせることが良策とは思えない。


(今は前に進む手伝いをしよう)


その内面にどんな気持ちがあっても。


(表には出さないと決めている)


氷室はもう片方の手を壁に向けた。


ぴたり。


両方の手のひらを壁につけて。
額もつけて。


目をつぶった。


「頑張れ。君は悪くない」


面と向かってそれを言えないからこそ、氷室は願うようにつぶやく。


「選択は間違っていなかった。すべてをのみこんで前に進むのだ」


笑っていて欲しいと思う。


(できることなら君の心に影を落すものを、ひとつ残らず消し去ってやりたい)


そこまで考えて、氷室は瞳をあけた。


「…それこそ理想だな」


首をふって苦笑いする。


(自分が望む完全な世界など誰にも存在しない)


生きていくということは、それだけでなにかが生じる。


悲劇。
不幸。
絶望。


(それを避ける術を、人は持っていないのだ)


それを宗教は「試練」とよぶのかもしれない。


そしてそれは星の数ほどあり、光の速さで降ってくる。


(だからこそ人は喜びも得られると私は思っている)


少女の顔を見て嬉しいのも。
自分が教師であることも。


すべて。
すべて。


「この世に生きているからこそ体感できるもの、か…」


氷室は思った。


少女がそう思えるように。
道を進めるように。


「私が君のそばにいる」


離れずに。


少女に愛する相手ができるまで。


「君の幸せを祈ろう」


氷室が壁を見つめながら言ったとき。


隣の部屋からドアが開く音がした。


氷室がハッとして廊下の気配をうかがう。


パタン。


開いたドアは軽い音をたてて閉まり。


小さな足音が遠ざかっていく。
きっと少女のもの。


(心なしか……元気になったように聞こえるのは私の気のせいだろうか)


そう思っていると。


「先生ーーっ、私頑張りますっ!ありがとうございましたーーっ!!」


大きな声が廊下に響いた。


「な、なッ!?」


氷室の眼鏡がわずかにずり落ちた。


まさか、という思いで廊下に飛び出すと。


笑っていた。


もう遠く。
廊下のはしにいる姿。


氷室には気づいていないようだった。


少女が制服のスカートをひるがえして階段に消える。


それを見て。


「・・・・・・」


氷室はしばらく、立ち尽くしたままだった。


完全に少女の声の余韻が消えて。
目に焼きついたスカートの残像が薄れて。
にわかに騒いでいた心臓がおちついたとき。


やっとそこで、


「・・・・・フ」


笑うことができた。


「やはり君は最強だ」


眼鏡を外して、額をおさえる。


教師の思いなど。
恋心など。


「無視して真実だけ奪っていく」


少女は自分で答えを出したのだ。


それが彼女の強さ。


惹かれた理由。


「卒業まであと半年…」


(私の心は乱されつづけるのだろうな)


氷室はふたたび苦笑いをうかべた。


けれどその顔。


苦笑いのはずなのに、嬉しそうに見えるのは――。


→終←

>TOPへ戻る
前へ

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ