** 長編 **

□妖弦奇譚
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◆ 序 …… 白繭の記憶 ◆






目にやっと見えるか見えないかの、白い糸。
その糸を、じっと見つめるのが好きだった。
儚い糸が集まって、不思議な模様を描くのをただ見つめるだけで、時の経つのを忘れてしまった。
それはそれほど美しく、妖しく、恐ろしかったのだ。

糸を繰り、糸を纏って、お蚕様は繭となる。
繭のなかに入られたお蚕様は、出てくるときにはもういない。
飛べもせず、喰いもせず、ただまぐわうだけの醜き蛾と化すのみ。

(繭になったお蚕様は生きてるか死んでるか、だって? おめぇさんは、可笑しなことを言うねぇ……)
(なあ、シロ坊。繭はお蚕様の命そのもんだっぺよ。繭がなけりゃ死んじまう。繭があったとて、中にいるお蚕様は、眠ってなさるだけ。起きて繭を出るときゃぁ、異形だ。10日と経たずに死んじまう。繭になってこそ、繭があってこそのお蚕様だぁ。おら達は、お蚕様の命を頂いて生業にしてっからなぁ……)

母だったヒトの声が、聞こえた。
自分がまだヒトであったとき、初めに覚えた名前を、首無は久しぶりに聞いた。もう数百年も忘れていた、思い出すこともないはずだった「自分の名前」。そして首無は、その名前が酷く嫌いだった。

産まれた赤子を見て産婆は、親には見せずに絹川に流そうとしたという。それが里の掟だった。
お蚕様に似た「白い赤子」は、ヒトにしてヒトにあらず。それゆえ川に流して厄を払わなければ、お蚕様がお怒りになる。
(あのとき戸口でおっとうが止めなかったら、シロ坊は……)
母だったヒトの声が、また。

お蚕様がお怒りになるなら、自分はいつか、あの美しくも妖しい繭に閉じこめられてしまうのだろうか。そして、生きているとも死んでいるともつかない、夢幻の時を眠り続けるのだろうか。

だから、ヒトであった最初の時の彼は、お蚕様の糸を見つめ続けた。
良家の女よりも白い肌、錦糸のような髪、青い眼。里の掟を破った産まれながらの罪。それらを全部、あの美しい白い糸のなかに隠してしまいたい、と。そして、そのまま密かに消えてしまえはしないか、と。




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