** 長編 **

□妖弦奇譚
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◆ 垂れ桜の上で …… その壱 ◆





形見分けに、と譲り受けた鯉伴の着流しを羽織って、垂れ桜のあの場所で、首無はじっと眼を閉じていた。久しぶりの陽光に多少目眩を覚えるものの、風も桜の香も、鯉伴のありし日と変わらず。眼を閉じれば、鯉伴の香りがほのかにまとわりついてくる。

「これはまだ、洗っておりませんので……」と若菜が申し訳なさそうに下げようとするのを、それでもいいからと無理に譲り受けた鯉伴の着流し。洗ってないからこそ自分はそれが……とは言い出しにくかったが、すでに事情を察していた若菜は、黙ってそれを首無に手渡した。

「首無さん、ごめんなさいね。ヒトの寿命が尽きたら、鯉伴様をお返しすると約束いたしましたのに……」
「そんな、若菜様。私こそ側近とは名ばかりで護衛としてのお役目を果たせず、若菜様の幸せを……」
それ以上、言葉が続かなかった。
じっと俯いていた若菜の目から、つ、と一筋の涙がこぼれた。

(ああ、また大切な人を守れなかった。……あの時、もう絶対に繰り返さないと誓ったのに、私はまた…)
自分の胸にも熱いものがこみ上げてくるのを押さえることができず、首無は鯉伴の着流しを半ば奪うようにして、若菜の部屋を後にした。 

それから幾日経ったのか、もう記憶は定かではない。
自室に籠もり、鯉伴の着流しを前に涙し、抱いて涙し、泣き疲れた後の浅い眠りから醒めては泣き。やがてその涙も枯れ果て。
「首無、何か食べないと……」
朝な夕なに障子の向こうからそっと声をかけてくれる紀乃にさえ、俺にかまうな、とだけ告げる日々が続いた。

そして、昨晩。
久しぶりに心が晴れた、ような気がした。もみし抱かれてくしゃくしゃになった鯉伴の着流しをいたわるように、湯を含ませた手ぬぐいで涙の汚れを落としつつ皺を伸ばし、衣紋掛けにそっと掛けた。
鯉伴の着流しを前にしつつ、久しぶりに手にする黒弦をしゅ、と巡らせ、機嫌を確かめる。
手入れをすっかり怠っていたが、黒弦も思ったほど傷んではいないようだ。
「黒弦、やっぱりお前も……だよな」
唇の端に少しの笑みを含ませつつ、黒弦を部屋に巡らせ、絡め、纏め。その感触も、久しぶりの晴れた心を高揚させた。

鯉伴様のために……まずは、風呂で身を清めようか。
風呂敷に着替えをまとめ、足取り軽く湯屋に向かう。今宵は風が心地よい。星が明るい。久しぶりに見る屋敷の庭はいつもと何も変わらず、しかし首無の眼には、新鮮に映った。
(あの桜……)
その先を考えるのを知らず強引に遮る自分に、気付く余裕はその時の彼にはなかった。

久しぶりの湯は、やはり気持ちが良かった。すみずみまで丁寧に体を洗い、顔を当たる。
「首無さんっ! もう……大丈夫なのかい?」
部屋に篭もりきりだった首無を気遣い、多くの妖したちが軽い笑顔で会釈をする程度に留めたなか、嬉しさを隠しきれずに声をかけてきたのは、やはり納豆小僧だった。
「ああ…… 今日はずいぶんいいんだ」
笑みを含みつつ、軽く返す。紀乃以外の者と話すのはいつからぶりだろうか。紀乃と話したとて、それは会話と言えるようなものではなかったな、と苦笑する。
「リクオ様もお喜びになりますよ。あぁ、良かった、これで本家も少しは…」と、語尾を濁しつつ納豆小僧は洗い場を出ていった。
(リクオ様……)
忘れてはいけない方を、忘れていた。だがすぐに、若菜様も総大将も、雪女も青田坊もいるではないか、何も心配することはないと、思い直した。
(鯉伴様、もうすぐ参ります)
鏡に映ったその顔は、少々げっそりとしてはいるものの、美貌と艶を取り戻し、輝いている。……ように首無には見えた。

久しぶりの湯を満喫した首無は、帰り際、台所に立ち寄った。
「あれ、首無! ずいぶん機嫌が良さそうだねぇ」
「紀乃、悪いが、酒を一本付けてもらえるか?」
「酒ってあんた……」
いぶかしげに問う紀乃に向けて、首無は笑いをこらえつつ、「俺が呑むんじゃねぇ、鯉伴様の分だ」と明るく返した。

鯉伴の好きだった妖銘酒に、大振りのぐい呑みと小さな盃がひとつずつ。それとは別に、首無のためであろう熱い茶。盆の端に添えられたは庭の枝垂れ桜。
(さすが、紀乃だな)
鯉伴の着流しに向い、一礼し、鯉伴の物であったぐい呑みに酌をする。それに桜の花弁を一枚添える。そうした後に自分の盃にも酒をたらし、口をつける真似をする。酒の香りが鼻腔をかすめた。
(うふぅ…… これだけでもう酔いそうだぜ)
苦笑しつつ、いっそこのまま酔ってしまおうかとも思う。
(鯉伴様も、正体を無くした私を随分弄んでくださいましたよね)
思いつつ鯉伴の着流しに眼を遣れば、甘く切ない想い出の数々が脳裏を巡った。と同時に、体の中心に昂ぶりを覚えた。この熱をどうしてやろう、としばし迷う。鯉伴様がお好きだった手淫。ここでしっかり見せつけるのも一興か、しかし。

首無は、自らの昂ぶりと熱を持ったまま、鯉伴の元にゆくことを誓った。熱を放つと同時に鯉伴様の元へ。それはきっと、至上の快楽をもたらしてくれることを疑わなかった。

そして、朝。
白装束に身を包んだ首無は、その上から鯉伴の着流しを羽織り、枝垂れ桜の上で在りし日の逢瀬の数々を思い浮かべつつ、刹那の恍惚を愉しんでいた。

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