小説
□ああなって、こうなって。
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〜営業課〜
「かーしーわーぎー。そろそろ帰ろうよ。今日塚本のペットショップに付き合う約束があるんだってば」
宮園さんの声が聞こえる。
「あと1分待って下さい」
「大丈夫だって。由梨ならさっき帰ったよ」
「その名を口にしないで下さい吐きそう…」
「もしかして孕まされたんじゃないの?」
殺意。
「未遂ですから!」
それにその顔で孕むとかいう言葉遣いをしないでほしい。
「わかってるよ。あーもう…」
宮園さんのため息を聞きながら、今日は珍しく俺を庇ってくれたな、と、ぼんやりした頭で考える。
俺と宮園さんを隔てるのはトイレの個室の扉だ。個室に篭っているのは俺で、宮園さんはそれに付き合ってくれている。
しかしひどい。あの先輩のゴリラはひどい。会社のトイレで迫ってくるとは。全身筋肉なだけはある。
これからは通勤に麻酔銃が必要なのか。
「ところで塚本のペットショップって何ですか」
「なんかね。一人暮らしが寂しいから猫でも飼うかって悩んでるみたい。そんなもの必要ないのに」
「塚本に合う首輪を買ったりしないで下さいね」
「ふふ」
何を笑っている。
「鳴海に会いたい…」
「想いは通じたんでしょ?どうなの、その後」
「忙しくてあれっきりです」
「勿体無いなあ」
「宮園さんこそ塚本とどうしたんですか。どうせ何もしてないんでしょう」
「えー?もうヤりまくりだよ」
思わずドアを開けて個室を出た。
「嘘」
「本当」
「嘘だ」
「本当だってば。なんなら写真見る?」
携帯を取り出した宮園さんの手を掴み、見たくないものを全力で封じ込める。
「いいです」
「そう?可愛い顔がたくさん撮れたから」
信じられない。何って人にその写真を見せようとする倫理観だ。
「寂しいから猫を飼いたいなんて、きっと俺に一緒に住もうって言ってほしいんだ。可愛いな。食べちゃいたいよ」
摘み取った木苺を食べたいとでも言うような爽やかな笑みに鳥肌が立つ。
のろのろ動いて手を洗い、用を足してないんだから洗わなくてもよかったか、いやあいつに触られた手だ、洗車用の洗剤が欲しいくらいだ、などと考えていると、廊下の方から足音が近づいてきて思わず宮園さんの影に隠れた。
「う、あ、す、すみませんっ」
入ってきて俺たちに気づき、なぜか明らかに狼狽したのは営業企画の、ゴリラの後輩の1人だった。
「出直します!」
「山内」
踵を返す姿に、咄嗟に声をかけた。
振り返った山内はみるみる顔を赤くする。
「お前の先輩、もう帰った?」
「せ、あ、由梨さんですか?」
「そうそれ」
「あ、はいっ、もう今日は、あの、帰還されました」
帰還って。
でもよかった。一安心だ。
「あの…柏木さん…」
「ん?」
「名前…あの、俺なんかの名前でも、覚えて下さってるんですね」
「当たり前だろう。会議で一緒になることもあるし。第一お前だって俺の名前を覚えてるじゃないか」
「はっ、あっ、それは、そう、そうですか、はい、はい」
首が取れるほど頷く山内に、なんだかちょっといい考えが浮かぶ。
ゴリラに復讐だ。
「なあ。山内」
ニコニコしている宮園さんを避けて山内のすぐ前に立ち、見下ろす。山内は鳴海と同じくらいの背丈だった。
平和そうな顔をして。
「俺さ。ちょっと最近、ゴリ、いや、由梨さんのことで悩んでて。お前たちにはいい先輩か?」
憂い顔を作って聞くと、山内は途端に心配そうな顔をした。
「あの、そうですね、僕らにはあの、そう、そうかな、優しいかな、仕事もできるような気がし、しますし」
「…そうか…」
「どどどどうしたんですか」
一旦視線を外すと、宮園さんが乗ってくる。多分面白がって。
「柏木。いくらなんでも由梨の後輩にあんなこと打ち明けちゃダメだよ。由梨と彼らの関係も大事なんだから。いくらあんな酷いことされたからって。ね」
「…ですね」
諦めたように微笑んでから、俺は山内の顎を指先で優しくすくった。
真っ直ぐに見上げてくる山内の視線を正面から受ける。
「由梨さんに敬意を持って、後輩として慕ってついていけ。学ぶことも多いだろう。でも…もし由梨のことで何か悩むようだったら、俺のところに来い」
しまった。さん付けんの忘れた。まあいいや。
「いつでも相談に乗るから。わかった…?」
顔を近づけ、低い声で囁くと、山内は体を震わせた。
面白いやつめ。
「わかりました!絶対にそうします!俺、俺、何があっても柏木さんについていきます!あの…尊敬してます!失礼しました!」
敬礼でもしそうな勢いで走って出て行った山内が、これから由梨さんにどんな態度で接するか、見ものだ。
「楽しい」
「楽しいね」
「鳴海に会いたい」
「あ、塚本迎えに行かなくちゃ」
多少溜飲を下げた俺たちは、やっとトイレを出た。