小説

□すなおの境界線
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「これが出てきたらこの公式使うって、もう覚えちゃえよ」

哲(さとし)の低く落ち着いた声がすぐそばで言った。

電気ストーブがカチッと音をたてて停止する。部屋の中は十分暖かかった。

ん、と短い返事をしつつも、崇直(すなお)の意識は手元の公式よりも声の方へ向いていた。哲の、声。

「おい、すう、聞いてんのか」

哲に指で頬をつつかれ、崇直は反射的に手を振り払った。

「もうやめろよ、そういうの」

我に返った顔が熱い。熱いだけで、赤くなっていないことを願った。
哲の方を見ると切れ長の目が少し笑っていて、その余裕顔に、崇直は心底腹が立って俯いた。自分の膝の下、ベージュのラグマットが少しほつれている。

「照れるなよ。やられ慣れてんだろ?それより早く終わらせろ、俺がいつまでも帰れないだろうが」

哲はあぐらをかいたまま両手を後ろについて体を反らした。
その時、崇直の部屋のドアがノックされた。

「入るわよ」

母だ。

「今日は随分長丁場なのね。お疲れ様。お茶代えるわね」
「ありがとう、おばさん」

お盆には番茶が注がれた湯飲みがふたつ。

「いつもありがとうね。さとくんの好意に甘えて、崇直も随分助かってるのよ。さとくんが来てくれなかったら机になんか向かわないんだから」
「うっさいな。もういいだろ」

崇直はいたたまれなくなってお茶をすすった。熱くて舌先を少し火傷した。

「俺はこれが仕事だから。すうはがんばってますよ。な?」

さっきより少し優しい声音で言う哲の方を、崇直は見ることができない。


折原哲。
崇直の10歳年上の幼馴染みで、大学生の家庭教師を派遣する塾を、学生時代の仲間数人と経営している。規模は大きくないが、若いのに手堅くやっているらしいと母から聞いていた。

普段は、こうして直接生徒を受け持つことはないという。が、今年の4月から週に2回、仕事が終わってから訪ねてくるようになった。1年の途中で不登校になった息子を心配した母が頼んだらしい。

余計なことを、と、崇直は腹立ち紛れに思った。
こんなにしょっちゅう会っているから、俺は。
哲のことをますます意識して。

この緊張ともやもやが、もう半年以上続いている。

「いろいろうるさく言わなくて、いいママだな」

母が出て行ってから哲が言った。湯呑みがホカホカと湯気を立てている。

「別によくないよ」
「反抗期だな。まあ、17だもんな。…ああもう、お前がもたもたしてるから、煙草吸いたくなったろ」
「…ここで吸えばいいじゃん」
「高校生の部屋で吸いたくない」

長い指が湯呑みを包み、ずず、とお茶をすする音がした。

普段は1日1箱ペースだという哲は、崇直の部屋では煙草を吸わない。
吸えばいいのに。そうすれば、課題が終わった後ももう少しそばにいられるのに。
そんな思いを、崇直は胸の深くに押し込める。


哲の母は、崇直の母の高校時代の先輩だった。崇直の母は、赤ん坊の崇直と2歳上の姉を連れてよく折原家に遊びに行ったらしい。
3兄弟の長男である哲が、崇直の面倒をそれはもうよくみてくれた、と、崇直は言い聞かされて育った。

物心ついてからもずっと折原3兄弟との付き合いは続き、哲は崇直の頼れる兄であり、いつしかそれが憧れに変わり、もう少し切ないものに変わったのはいつだろう。
もうずっと昔のような気がする。


「じゃあ、次は金曜日な。出した課題ちゃんとやっとけよ」

立ち上がりながら哲は言い、さりげなく崇直の頭に、ぽん、と触れる。
途端に崇直は嬉しいような恥ずかしいような熱に浮かされ、それがすぐに圧倒的な寂しさに変わるのを感じた。

哲の後に続いて部屋を出ながら、カーディガンを羽織った少し猫背気味の背中を盗み見る。

ずっと追いかけているこの背中。追いかけているだけの。

廊下の寒さに身震いして、崇直はパーカーのポケットに手を突っ込んだ。


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