小説
□我慢できそうにありません
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「どう?慣れた?」
「はい、少しは」
バイトが終わってロッカールームで一息ついていたら、休憩に入ったらしい先輩が入ってきて声をかけてくれた。隣で首を傾げているらしい先輩を、俺は直視できないでいる。
その落ち着いた感じの少し鼻にかかる声も、ものすごくツボだ。
大学1年の俺は根っからのゲイで、しっかりしていて面倒見の良い年上の人が好みで、たまたまバイト先の新人教育担当の先輩がそういう人で。
何気なくフォローしてくれたり、失敗してもできるようになるまで気長に待ってくれる2歳上のその先輩に落ちるのに、そう時間はかからなかった。
ただでさえ叶わない恋ばかりなのに、惚れっぽい俺は不幸だ。
「時間見つけてここのポスター貼り替えて」
「はい」
優しい声。きっぱりと的確な指示をくれる唇。笑うと皺が寄る目尻。カラーリングで少し茶色がかった髪。俺より少しだけ背の低い、きれいな体のライン。
そして、細い、長い指。
好きだ。
好きだ。
バイト先は大学近くのCDショップ。俺のシフトは夕方からで、試用期間の今は、同じく大学生の先輩とシフトを被らせてもらっている。
俺に仕事の指示をしてから、先輩は近々4枚組のベスト版を出す海外のアーティストのポップを描き始めた。
その細長い指が、黒い紙の上で銀色のサインペンをさらさらと動かす。みとれそうになる視線をひっぺがして、古いポスターを留めているピンを外しにかかる。
不毛なんだよ。いつもいつも。どうして、わかっていても好きになってしまうんだろう。
疲れて傷ついてもうやめようと思うのに、すぐまた恋をする。物覚えの悪い犬みたいに、同じことを繰り返す。
どうにかして少しだけそばに行けないか、ちょっとだけでいいから触れられないかと、考えてしまう。
「のりちゃんは、彼女とかいるの」
描く手を止めないまま、先輩はこちらを見ずに俺に聞いた。
ひろのり、だからのりちゃん。
先輩の声はいつもふんわりと笑みを含んでいる。ずっと聞いていたい、と思っていたら返事が遅れた。
「のりちゃん?」
「あ、は、え、いや、」
狼狽えすぎてくす、と笑われた。
「連休近いからさ、デートとかあるなら早めにシフトの希望出しなよ。早い者勝ちだから」
「あ、いや、俺はまだ新人なので、そんな」
彼女なんかいません。いたこともありません。ここ2週間は毎日毎日先輩のこと考えて悶々として眠れない日々を過ごしているけど明日になればまた先輩に会えると思ったらますます眠れなくて大変ですでも幸せです好きです好きです大好きです先輩。
と言えない代わりに勇気を出してみる。
「先輩は」
「ん」
「先輩はいますか、彼女」
「いやぁ?」
横顔は穏やかだ。
「しばらくいないよ。あとさ、」
先輩が顔を上げる。
「先輩ってのやめない?この店のみんながのりちゃんの先輩なわけじゃない?なんで俺だけ苗字にさん付けじゃないの?」
それは。ひなたという先輩の苗字があまりにその笑顔に似合っていて呼ぶ度に心臓が壊れそうだからです好きです好きです大好きです。
バイトを始めて2週間。想いが深くなるのには、出会ってからの時間の長短なんか関係ないと、俺は痛感していた。
閉店してからの作業は2人体制で、今日初めて俺もその作業を任された。他の遅番のバイトたちが軽い挨拶をしながら帰っていく。
レジ締めや掃除や整頓をして、先輩が明日の早番への連絡事項をパソコンへ打ち込む。先輩のキーを打つ鮮やかな指使いを見ていたらなんだか変な気持ちになりそうで、そばにあったアイドルグループの販促フライヤーを手に取った。
「のりちゃん、そういう感じの好き?」
先輩は面白そうに俺に聞いた。
「いえ…」
「のりちゃんてあんまり話さないのな。まだ緊張してる?大丈夫だよ、良くやってるよ?」
緊張なんかするに決まってます、先輩と2人なんだから。だからその笑顔をやめてください、そんなに優しくされたら、俺は。
「俺の目もあんまり見てくれないし。照れ屋?」
「あの、先輩、」
「まーた先輩。日向だよ、日向、覚えた?ひ、な、た」
忘れるわけがない。1日に何千回も心の中で呟くその名前。