小説3
□美容液ローション
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まつげの美容液を、買って帰らないと。
お客さんのクレームを延々聞きながら、僕はぼんやりそんなことを考える。
京子さんが教えてくれた美容液は、確か5千円くらい。抜けにくくなって、伸びるっていう。雑誌でも見かけたけど、ボトルがとってもかわいい。小さな香水瓶のよう。
今月は化粧水も洗顔もクレンジングもなくならないし、大丈夫、買える。
来月、ボーナスだし。
女の子は大変だな。すっぴんの僕に比べたらもっともっとお金がかかる。
「そうですよね、それはこちらの対応が悪かったですよね、申し訳ありませんでした」
自動的に口から出てくる言葉には感情なんか一切こもっていないのに、相手の女性はそれで少し落ち着いてくれたみたい。
言葉遣いも対応も、まだまだだって課長には言われる。でも、京子さんは僕のことを褒めてくれる。
かわいらしい声と、親身に話を聞く姿勢が、多分電話だと相手に何倍にも膨らんで伝わるんだって。
それに、若い男ってだけで得なんだって。
電話をしてくるのは大抵おばさまだ。
最初はすごく怒っていて、店頭で失礼な対応をされたとか、高いクリームを買ったのにシワが取れないとか、肌が荒れたとか、それはもう嵐のように言葉がぶつけられる。
でもそのうち、娘が結婚するとか、孫が生まれるとか、あなたいくつとか、付き合ってる人いるのとか、全然関係ない話になる。
それを聞くのも楽しい。時間も潰れるし。
だから僕は、お化粧品メーカーのお客様相談室のオペレーターが天職だと思ってる。
50人近くいる中で、男の子は僕だけなんだけど。
僕はいわゆるオカマではない。女装癖もないし、見た目は普通の男の子だ。
ただちょっと、お化粧品とか、いいにおいのものとか、かわいいものとか、そういうのが好きなだけ。
お昼前最後の電話を切って、隣の席を見やる。
「京子さん、お昼外出る?」
「今日はお蕎麦ね」
「いいよ」
「あぁ、疲れたわ。長い。長いんだよ話が」
京子さんは長くカールした髪をぶわっとかきあげた。すてきな仕草。
京子さんは35歳独身で、軽々と自由の身だ。仕事もできて、美人で、僕の尊敬する先輩。歳が一回り違うけど、さばさばしていて一緒にいるのがとっても楽。
「鴨南蛮にしよっかな」
言いながら、京子さんはハイヒールでビル街を颯爽と歩く。
こつこつこつ。
今日のは薄いベージュで先が尖っている。汚れひとつなくて、ピカピカだ。
「僕はなめこおろし」
「あんたそれ好きね」
「ヘルシーだし」
「そういえばさっき、課長宛の電話取っちゃったよ」
その言葉に、僕の体はぴーんとする。
京子さんの顔を見ると、予想通りの、目を細めたからかい顔。
「名古屋支社から」
「オアシスさんから?!」
京子さんがうなずくのを見て、僕はうっとりしてしまう。
「どうして僕に回してくれなかったの」
「悔しかったら誰より早く取りなさい」
「あぁ…思い出すだけで癒される…」
「怖いわ」
「だって仕方なくない?あの声…うふふ」
京子さんは大抵この辺りから僕を無視するので、僕は安心してオアシスさんがいかにすてきな声かを語ることができる。
「低くなく、高くもなく、ちょっと鼻にかかったような、でも芯があって、ちょっとがさっとしたような、でも話し方がすっごく優しいからドキドキしちゃうよ」
京子さんは我関せずといった顔で、お蕎麦やさんの引き戸を開けた。
オアシスさんというのは、もちろん本名ではない。
名字がコウヅキさんで、名古屋支社の営業企画の人で、うちの課長と仲良しの男のひとだということしか僕は知らない。
僕に癒しとお肌の潤いを与えてくれるすてきな声の持ち主。だから、僕はコウヅキさんをオアシスさんと呼んでいる。
たまに、課長宛に電話がかかってくる。
なぜか回線が一緒で、相談室に勤務する誰かが取ってしまう。
ライバルは50人弱。
その頂点に立てた日、僕はオアシスさんの声を聞くことができるのだ。
かけてくる頻度はそんなに高くないと思う。それでも僕はもう5回、オアシスさんからの電話を取っている。
「少女漫画の主人公みたいな顔やめたら。まつ毛が綺麗にカールしていること。憎たらしいわね本当に」
僕のなめこおろし蕎麦も頼んでくれた京子さんが呆れている。
「だってすてきなんだもの」
「顔も見たことないくせによくそんな顔ができるわね」
「あの声と話し方。絶対優しくていい人で、きっとイケメンだよ」
「あんたから見たらおっさんでしょうに」
「40くらいかなぁ」
「そうね」
「奥さんいるかなぁ」
「知らんわ」