小説4

□森田の幸せ
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「痛えな」

知らない人間と肩がぶつかった。小さな声で毒づかれ、会釈を返して通り過ぎる。

仕事が遅れている。
早く回らないと。
気が急く。

連休中の土曜日。道路は混んでいるし、書き入れ時のため受注数が多いので、一件当たりの配送に時間がかかっていた。

繁華街にある飲食店への配送は、路上駐車の合間を見つけてトラックを停め、人混みをかき分けて荷物を運ぶ。
それを永遠に繰り返す。

自覚はなくても、いつもより疲れているようだ。

今日は全体的に、ついていない。
運転席へ戻って、ほうと息を吐き、エンジンをかけた。

次の配送を終え、トラックへ戻ると、バンパーが凹んでいるのが見えた。
当て逃げだ。

始末書だな。
所長に言われる嫌味にはもう慣れた。
それでも今日は、なるべく早く帰りたいのに。
大事な人の顔を思い浮かべると、胸のあたりがじんわりと温かくなった。

まあ、仕方ない。

気持ちを切り替え、次へ向かう。うじうじ考えている暇などなかった。



事務所に戻ってすぐ、大口の取引先から電話があり、どうしても足りないものがあるからすぐに持ってきて欲しいと言われた。

担当は俺ではなかったけれど、すぐに出られる人間が俺しかいなかった。
厳密に言えばもう1人いたが、うまく逃げられた。

まあいい。仕事だ。切り替えて荷物を積む。

「森田さんの方が運転上手いし」

と半笑いで言うのが聞こえた。

会社では、取引先のためと思って心を無にすることも大切だ。



再度事務所へ戻ったのはいつもより1時間ほど遅く。
当て逃げされた件を報告して始末書を書きながら、若干そわそわしてくる。

「森田。明日納品あるからあそこの空段ボール片付けておいて」

上司に言われて頷く。
誰か、気づいた人がやるべきこと。
自分は朝、気づいたけれど、時間がなかった。

仕方がない。仕事だから。




家に着いたのは約束の時間の2時間後だった。

急ぎ足で階段を登る。

「あっ、お帰りー」

玄関のドアを開けると、畳に転がってテレビを見ていた岡崎が顔を上げた。
綺麗な、笑顔。

「ただいま」

テレビは、岡崎のために最近用意したものだ。設置した途端に部屋が賑やかになった。
1人の時はつけない。
岡崎がいる時といない時。明暗の差がさらに増した気がする。

「森田さん、腹減ったー」

帰ってきて早々、岡崎にこう言われるのが、とても好きだ。
俺が仕事で岡崎が休みの日、昼間は友人と会ったり買い物をしたりして過ごすらしい岡崎が、俺の帰りを待っていてくれるのが、とても嬉しい。

岡崎は体を起こしてあぐらをかいた。骨の形がくっきりとわかる、形のいい足首がのぞく。

「遅くなって、ごめん」
「大丈夫。忙しかったの?」
「うん…ごめん」
「いいって。仕方ないよ。俺だって客が帰らないと帰れないしさー」

岡崎のこういうところに、本当に救われる。

「お疲れ様」

岡崎はこれ以上ないくらいに綺麗に微笑む。
少し見惚れてから、普段着へと着替える。

俺が着替えるのを、岡崎は、見る。

「…見ないで」

なんとなく恥ずかしく、洗面所に行こうとすると、岡崎もついて来た。

「見ないでって言われると追いかけたくなるんだけど。ねえ今日メシどうする?食いに行く?」
「…遅くなったから、弁当にしますか」
「そうしよ!買いに行こー」

楽しそうに玄関に向かう岡崎を、気付いたら抱き締めていた。

「どうしたの。森田さん」

くく、と笑って岡崎が聞く。

「…少しだけ…」

呟くと、岡崎は笑みを含んだ声でもう一度、おつかれさま、と言った。

どれだけ疲れて帰ってもそれが一瞬にして散っていく感覚を、幸せと呼ぶのだろうか。






-end-
2015.1.10


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