昨日
□まだ淡い針のように
1ページ/1ページ
西園さんは、完璧な女の子だ。
それは、浅からぬ付き合いを持つ僕だけじゃなく、彼女を知る大体の人が思うことだと思う。
西園さんは、申し遅れたけど、僕が中学に上がって以来のクラスメイトの中のひとりである。
思えば、最初に見たときから只じゃ済まない予感はしていたのだ。
余談だけれど核心を突いた話をしよう。
西園さん、もといフルネームは西園林檎は、学年でも有名な秀才で、学力は僕どころではないさ次元で、その上容姿も性格もおしとやかで、何かにつけて先生やまわりの人間ちやほやされるのは彼女の代名詞だった。
僕はといえば、別に何を持っている訳でもなく、何一つ凄みも面白味もない只のサッカーをする男の子だった。
補足しておくと、彼女は当然ながらピアノが弾けたし、手先の器用さは群を抜いていて、まあとにかく何をさせても完璧にこなせる優等生だったのだ。
番号順の巡り合わせで、指定席のときは必ず僕と彼女は隣もしくは向かい合わせだった。
至極当然ながら、それは美術の時間もおんなじで、隣の席は構造からして作業が始まれば向かい合わせで。
僕は、向かい合わせの人間としてスケッチされていることも忘れて、彼女の白い手ににぎられた4Bの緑色の六角形がさらさらと流線形を辿るのをじっと見ていた。
ただひたすら、彼女の麗しさに紅くなる暇もないほどしろい人差し指に意識を傾けていると、突然に唐突に、ちいさな唇を開けて彼女が云った。
「速水くんって、」
「何でしょう、」
「その眼鏡は、近視?」
彼女が少し首をかしげると、長いチョコレートブラウンが細い肩からはずれていった。
「そうですけど、」
「そうなんだ、わたしも実はそうなの、それにしても、速水くん凄く似合うよ、勉強のし過ぎ?」
「いえ、あの、多分、ゲームとか、パソコンだと、おもいます、たぶん、」
「機械、詳しそうだよね、今度、面白そうなゲームとか、教えてほしいな、弟も、ゲームとかするから、」
にっこりと話す彼女は、僕が異様なまでに緊張しているということには気づかなかっただろう。
そう、彼女を前にすると異常かもしれないほどに緊張するのだ。
きっとこれは僕だけじゃないに違いない。
完璧に巧く綺麗な彼女をどうにか揺らがすまいとすれば、誰だってそうなる。
まともな会話をしたのは多分それ切りで、その機会が終われば普段通りの、高嶺の存在と少年Tに戻って、別段ゲームの話もしないまま隣の席で毎日6時限の授業を受けて日が暮れた。
そして僕はサッカーをした。
放課後になれば彼女は帰ってしまうか音楽室に駆け込んでしまうかのどちらかなので、僕の部活風景は多分見えない。
それがすこし残念だった。
それでも彼女は毎日変わらず完璧で、問題もなく失敗もせずに生活していた。
ただ、この頃彼女を放課後に校舎の影で見つけることが度々あった。
わざわざ声はかけなかったけれど、毎回、彼女は泣いていたように思う。
そう、僕は知らなかったことに、彼女にはどうしようもない弱点があった。
あれは、中学1年の夏の日、
来る体育祭に向け、僕のクラスも下級生ながら例外なく、全校の頂点を目指し、授業を費やしてまで練習に明け暮れていた。
(こういうの、面倒だなあ、)
(別に僕は善いから、やりたいひとだけで勝手にやれば、)
目の前に延々、一定間隔で並べられた水色の錆びたハードルを、嘘みたいに光って注ぐ直射日光と交互に省みながら、うすくて粗い砂の敷かれた運動場で項垂れつつ、僕は競争の帰り道をとろとろと歩いていた。
(チャイムはいつ鳴るんだろう、)
校庭の端に向かって歩きながら、校舎の真ん中から見下ろしてくる時計をくっと見上げると、女子の悲鳴に近い声がした。
「西園さん、西園さん、やだ、大丈夫!?」
後ろを振り返ると、トラックの真ん中にちいさな人だかりができて、その隙間からよこたわっているであろうふたつのしろい脚がのぞいていた。
彼女は幸いすぐに起き上がったが、周りの人間がそれを支えながら覗き込んでいる。
「速水!」
その中にいた体育の担任が、保健委員の僕を呼んだ。
どうやら僕が彼女を保健室までつれていくらしい。
人の視線を感じながら彼女に業務的にてを伸ばすと、彼女が力なくにぎって、人だかりは散っていった。
「大丈夫ですか、」
やはり僕も鬼ではないので心配はする。
何となく足取りの不安定な彼女を見遣ると、時折ふらっと傾きながら目を閉じて僕の肩を掴んだ。
「ごめんね、大丈夫、」
蒼い顔に笑顔をもって彼女は答えた。
彼女をベッドまで誘導し、先生を呼びにいくと、彼女の水筒を取ってこいといわれたので、僕はこのひんやりした屋内から炎天下に身を投げ出さなくてはいけなかった。
保健室へ戻ると、養護教諭は居なくて、彼女が一人でいるだけだった。
滅多に使われる事のない、ちいさなベッドの上で彼女はぼんやりと目覚めていた。
「ありがとう、ごめんね、速水くん、」
彼女はかすれた声で申し訳なさそうに小さく云ったけれど、ぼくは正直この明らかに無駄な時間を、無駄な場所で過ごさなくて済むということだけでかなり助かっていたりする。
水筒を手渡すと、軽く飲み干した後、彼女は云った。
「ごめんね、迷惑だったよね、」
「え、いえ、全然、迷惑とか、そんな、」
「…ありがとう」
灰色の密室には、エアコンのモーター音がやけにおおきく響く。
BGMに蝉の喚き声が喧しく鳴っている。
「ねえ速水くん、」
「、?」
ぼくと眼を合わせて、すぐに逸らすと話し出した。
「速水くんは、サッカー、してるんだよね、」
「え?あ、はい、サッカー部ですけど」
弱く短い溜息を吐く。
「わたしの弟ね、来年ここに入るんだけど、弟もサッカーしてるの、」
「そうなんですか、」
シーツを握る音が音もなくきゅっと聴こえる。
「わたしも、」
「あの、に、西園さん…?」
かさっ、と彼女は顔面を軽くかけ布団に埋めた。
「わたしもサッカーしたかったなあ、」
「でも、できないんだよねえ、」
顔を上げないまま云う。
「わたし、こんな偉そうなのに、自分でやりたいこと、全然できないんだよねえ、」
ここは、訊いた方が善いのだろうか、
恐る恐る口を開く。
そろそろクラスメイト達も不審がっているんだろうか、
だけれどもういまさら戻る気はない。
「あの、どうして、なんですか、それって…?」
彼女は顔をあげ、案外ためらわずに話し始める。
「わたしね、身体がね、丈夫じゃないの、小さい頃に、ちょっと、色々あって、」
「今日も視たと思うけど、」
「そう、だから、止められてるの、だからわたし、本当は、体育祭なんて出たこと、ない、」
「けどね、もう中学生だし、もう善いかなあって、でも、やっぱり、だめだったみたい、」
ぼくが、掛ける言葉を決めかねていると彼女が笑った。
「変なことを云ってごめんね、」
「あっ、いえ、あの、別に、変なことじゃないです、こっちこそ訊いて申し訳ないっていうか、」
「速水くんが謝ること無いよ、訊いてくれてありがとうね、これは速水くんにしか話していないから、」
ぼくの唇にすうっとしろくてちいさな人差し指が迫ってきてわらう。
「だれにも、内緒ね、」
触れた所から一瞬にしてあつさが全身に波及した。
あれから、一年弱が過ぎた。
ぼくたちに、あれ以上の関係が生まれることはなかったけれど、ぼくは彼女の中で、その他大勢以上の存在なんだと密かに自負を持っていた。
証拠として、ぼくも挨拶くらいはするようになったし、彼女に視えるような場所を選んで自主練習に励んでみたりした。
声をかける度に浜野くんがぼくを突いたりしたけれどそれどころじゃないぼくが反応を示さないので、そのうち放っておかれるようになった。
ほんとうになにも生まれなかったけれど。
そしてそのうち、神童くんと西園さんが知り合いであることを冬休み前の音楽室付近で目撃した。
春が来たので、新入生が入ってきた。
恐ろしいほどの紆余曲折を経て、新入部員もふたり入部してきた。
そのうちの片方の名字が西園だった。
(…似てない)
と、以上がぼくの率直な感想だった。
ラインの外に出たボールを拾いに走って行った信助くんの動きが止まる。
「お姉ちゃん!どうしてここに?」
沢山あった波乱もすこし落ち着きだした頃、休日の練習に西園(姉)さんが顔を出した。
どうやら差し入れを持ってきたらしい。
「ええっ、信助のお姉さん!?」
「いたんだ…」
「似てないな…」
お姉さんの存在をしらない、ぼく以外の他の人たちや監督は騒いだり問い質したりしている。
「あ、神童くん、コンクール以来ね、久しぶり!」
「ああ、西園さん、この間はクッキーありがとう、」
そういえば、あの事件のあとも、ぼくは彼女の焼いたクッキーを一度、ごちそうになった気がする。
「すごかったよ、神童くん、感情の入り方が、」
「だったら西園さんだって、あ、そういえばクラシックの新しいレコードが…」
内輪の話を始めたり、それがだんだんと盛り上がって行くのでぼくは面白くないと思いながらその方面をじっと見ていた。
「なーなー速水、」
「…なんですか、」
後ろから浜野くんの声がする。
「お前ってさ、」
「西園さんのこと、」
ぼくは何度計算しても歪まないその答えに絶句するのだった。
(わかっていたんだ、こんなことは、)
(驚くほどぼくたちには共通点がないのに、)
まだ淡い針のように
♦サッカー以外は普通で、ネガティブな普通の子速水くんと、全てにおいて完璧に女の子だけれど、ほんとうにやりたいことができないからその普通さが羨ましくて、かつそのネガティブな子の善さに気付けるっていうのが、なんかわたしのなかで気に入っています。
彼女が近くにいたって焦がれるだけのネガティブ男子も好きなんです。