□あおいまぼろし
1ページ/1ページ

(あんな風に、皆で世界を震撼させて前に進んでいくのが楽しかった時間は瞬間風速みたいな幸福で、滅多にどころかもう優に一生分を取り落として終ったことだろう)

(最果て、もうぼくたちにはあんなに光った日々は訪れない)





あれから結構な時間が経って、(といっても4・5年の話だが)俺たちは面白い位に別の道を歩いた。

俺はもうボクシングをしていないし、竜も剣崎もこの世界にはいない。

旦那は実家に帰って別のことをしていると聞いたし、菊ちゃんはいわずもがなだ。





九十九里の潮風は、云うほど自然に満ちて澄んだものではないし、貴重なもの所なんてない。

米が獲れるわけでもなければ魚がやたら大量に捕れる訳でもない、至って平凡なただの漁村だ。

何にもないこの感じが、俺にはなじんでいるし、寧ろ暮らしやすいものでもあるんだけれど。




「…と、今日の卸も終わったことだし、」

帰ってもすることねえけどなあ。


久々に町にでも出るか。




どうでもいいくらいに、千葉の空は何の変哲も情緒も無い、つめたくて人間らしい空だ。

それでもって、今日も今日とて雲以外は蒼い。




じゃりじゃりと、海沿いの狭い道路を歩く足音がした。



周りを見渡すと、前方から二人の男女が歩いてくるのが視えた。


「なんでえ、アベックかよ。こんな昼間っから、」




ひとりは背の高い、白いカッターシャツに茶色の細いパンツの、髪が黒くて長い男で、

隣にいるのは男より頭一つ分小さな背丈の、赤と白の縞模様の短いワンピースに、カンカン帽の女だ。




(視たことあるかな、誰だ、あれ)



ふたりはとても仲睦まじそうに寄り添って歩いている。


女が細い腕を突き出して海を指差すと、男は指された方を向いて笑った。


でしょう、と高い声が聞こえた気がした。




ふたりはこんなに人気のない道の、こんなに中途半端な幅の道の隅っこに追いやられた様に歩いている。



まるで世界中をさ迷い歩いて、何処からも追い出された迷子のように、身を寄せ合っている。



こんなに暑いのに、その距離はやけに近く、表情はやけに淋しげだ。




(なんだろうなあ、絶対に視たことがあるんだがなあ、)






「あ、石くん!!」



女が飛びあがって俺を呼んだ。

こんな呼び方をするのは一人しかいない。



「おおお!林檎か、すると、隣は」



「久しぶりですね、石松」




何年かぶりに視た河井は、相も変わらず上品な顔立ちと容姿で、むしろ昔なんかよりも大人になった分男らしさが出て、俺なんかじゃすこし委縮してしまいそうな迫力だった。





「石くんはここで漁師さんしてるの?」


「ああ、此処で華の独身生活よ、おめえらは何で突然こんな所に?」



「夏だから海へ行きたいと彼女が云いだして、」


淋しげにはにかみながら河井が云う。

ふたりの手はかたく繋がれたままだ。



「へえ、じゃあ俺ん家にでも寄っていくか」



「いいよ、わたしたち行きたい所があるの、今日は寄れない」



思い詰めた瞳で、林檎が云う。


「ね、武士くん」


「はい、本当はちょっとした用事があって。そのためにここに来たのもあるんですよ」


申し訳なさそうに河井が云う。



「ほお…それはごめんな、所で河井、おめえよ、」


「はい?」



見慣れた筈のブルーブラウンが視開かれる。




「音楽の勉強はどうしてんだ、全然連絡くれねえじゃねえか」






一瞬の空間が空いて眼を伏せて低い声で河井は答える。





「ええ、ぼくも結構忙しくて」





「でもね、凄いんだよ武士くん、高校は主席だもの!」

ね、と林檎が河井に眼を配せる。


はい、と照れくさそうに河井が返す。



まだふたりの手は繋がれたままだ。




善く視ると、ふたりはここの住人じゃないから、旅行だか遠出に来たに違いないのだが、荷物なんて皆無で、洒落た都会の服装に着の身着のままと視える。辛うじて林檎の首からは小さなポシェットがかかっているが、着替えどころか本当に現金を入れるので限界な、財布ぎりぎりの大きさだ。



「やけに軽装だな、日帰りか?」


「ええ、そんなに長居はしないつもりで。ぼくたちも休みがとれないし、」



ちらりと河井が林檎に眼を配せる。




独り落ち着かず遠くを見つめていたらしい林檎が、河井の手を軽く引いた。

「武士くん、」


上目遣いに河井にせがむように云う。




「あ、ごめんなさい。久しぶりですけれど、これで」




軽く頭をさげて、ふたりが歩きだす。





じゃりじゃりと粗い砂を踏む音が鳴って、遠ざかる。




振り返ると、もう誰もいなくて、俺は当初の予定通り近くのさびれかけた町に繰り出すのだった。











河井の姉さんから、電話がかかってきたのはその夜のことだった。




(俺は何となく予想していたけど、)
(そんなことはなかろうとさえ思っていた)
(蜃気楼に当てられたのか、)

あおいまぼろし

「武士と林檎さんがね、千葉の海へ行くって云ったきり、もう4日も連絡がないの。どうしたのかしら、身分証明書も着替えもポケベルもカメラも持たないで、ねえ香取くんあなたしらない?警察にも連絡したんだけれど便りはないし、他の誰も判らないって云うのよ、大学からも問い合わせがきているし、あの子休みでもないのに帰らないのよ、何か事件に巻き込まれていやしないかしら。心当たりはない?もしもふたりの足取りがつかめたらすぐに連絡を頂戴ね。私、いつでも出られる様にしておくから、ねえ本当にふたりとも大丈夫かしら、何かそっちのニュースでやっていない」

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ