□みえないまぼろし
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わたしと武士くんがであってもう8年が過ぎるけれど、わたしの中の彼への感情は一向に変わらない。

なにをどうとっても、最初から、好きで、愛していて、すきなのだ。


それは、どんな現実に直面した所で、はね付けないでいてくれる彼に対してはより一層ふかまっていくものだった。





わたしは大学になんて行きたくなかったので、高校を卒業した所で適当なスナックみたいな所で毎晩御歌をうたう練習をしていた。

剣崎のお家には知られないように、昼間はちゃんと御歌の学校に通いながら。




そんな風にだらだらと好きなことをして過ごしても、武士くんを相変わらず好きでいられたわたしは、何度も何度も、夢を叶えるべく大学に通い出した武士くんと手紙を交換して、電話をして、こっそりと会ったりしていた。







武士くんのこころが壊れてしまいそうだと知ったのは、つい最近のある日のことだった。



あんなに大好きなピアノを、毎日毎日弾いていた武士くんは、音が追いかけてくるんだと云った。


きっとボクシングの後遺症かもしれないとも云っていた。




頭の中で沢山の音が響いて止まなくて、それが、誰よりも音にするどい武士くんにはとってもつらいことの様だった。


わたしは、お医者さんを探そうかとかいっぱい考えたけれど、そうしようとするとお家を頼らなくってはいけないし、何より武士くんがそれをだれかに知られるのを嫌がったからだった。



だけれどどうしてもわたしは武士くんを助けたくって、お父さんに相談をしてしまった。




そうするとお父さんは、わたしにはもっとちゃんとした結婚相手をあげるから、そんな先の短いひととは別れなさいと云った。



わたしは絶対に嫌だと云った。


お父さんは、兄さんがいなくなってから余計に、眼先の体裁にこだわる様になった気がする。




わたしは、どうあっても武士くんを辞めないと云った。



お父さんは、おまえはやっぱりこの家の子じゃないから出ていけと云った。




それでもわたしは武士くんが好きだった。





20代にして、わたしは二回も、帰る家をなくしてしまった。




わたしは武士くんのお家に間借りすることにした。




お父さんのことは、云わなかった。










「海に溶けてしまえたら、この音は止むのかなあ、苦しくなんて、無くなるのかなあ」


ある日、武士くんはわたしに云った。






オレンジと白と青の中間の、まぶしい夕日は今日も夜しか連れてこない。



それでも窓からはめいっぱいに光が流れこむ。






「海に溶けたら、きっとぼくたちはふたりで幸せになれるのかな」





疲れているこんなにきれいな顔が、これ以上歪むのが我慢できなくて云った。





「海に行こう、武士くん、海に溶けに行こうよ、さいごに」







ふわふわと歩いてきた武士くんは、わたしをぎゅううっと立ったまま抱きしめて崩れて泣いていた。





「そうだね、そうしようか」



(絶望と向かい合って、わたしたちは取引をした)
(幸せになりたいってだけで)

みえないまぼろし

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