□いえないまぼろし
1ページ/1ページ

海って云うのは、何の変哲もない塩水とプランクトンの溶液で、

所詮、ぼくたちは腐るしかない固形のかたまりで、

中性の、透明な空気の中で、身を削っていてもなお、

ちっとも幸せに手の届かないことがゆるせなかった。



ほんとうなら、ぼくはこの手で、どんな音だって揺らせるはずだし、

どんな敵だってうちたおせるはずだったのだ。



それなのにそんな瞬間風速を乗り越えた先には、

ぼくのほしかったものはなかった。






形容のしがたい音がとめどなくあふれて、ぼくを追い詰める。

ようやく普通の人生に近付いた気がしたのに、

結局最初から、ひとつも普通じゃなかった。






揺れる電車の中で、彼女はぼくの手をじっと握っている。

眠りもしないで、時折ちらちらとぼくを視ている。



ほんの少しだけ冷静になりつつあるこころは、

彼女に我儘を云った昨日と全然変わっていなかった。




九十九里に着いた朝は彼女の20歳の誕生日の日だった。


当てなんて無かったけれど、何となくすこし町を視てからにしようと彼女は云った。





「これでぜんぶ、最期だね」

「ごめんね、ぼくのせいで」


「ううん、ごめんね、隣がわたしで」


「善いんだよ、きみとが善かったんだから」




ちょっとだけ悲しそうに彼女がはにかむと、ぼくは今からすることにいくら合意があるとはいえ、罪悪感が募った。




じゃりじゃりと、何にもない海沿いの道路を歩く。


観光地でもないから、人気は少ない。




目立たないようにしたいと誰が云った訳でもないけど、自然に端に寄っていくぼくらは、

まるで世界からはじき出されたみたいだと思った。






「あ、視て、トビウオ、視た?」



彼女が急にぼくに向きなおって云う。


ぼくも海を視返す。


「あ、また跳ねた、本当だ」


「でしょう!」






こんな恋人らしい会話が、ぼくたちのエピローグだなんて誰も思わないだろうけれど。







石松くんと別れて、

ぼくたちは目的の絶壁へ向かう。





「ここが善いかな、柵も人気もないし、」




地平線を視て彼女が云う。



「そろそろ行こうか、」





「あいしているよ、」

「わたしもだよ」





今、急にした決まりごとの様に、ぼくは彼女を強く抱きしめた。




「はなさないから、いいね」



「はなさないでね、きっとよ」





おたがいにがたがたと震えながら、ぼくらは強く地面を蹴った。

力が尽きてしまう前に。





大きな音がして、視界は深緑に染まる。


眼は閉じてしまおう。




「(おかしいな、)」


諦めてくれると思っていた音のお化けは、

まだまだ僕を追いかける。



音は次第に強く低くなって、ぼくの内側へぶつかってくる。





彼女の力が弱まりかけると、ぼくは追いかけるようにつよく抱きしめた。




鼻の奥が痛い。




あああ、ごめんよ姉さん、休みだなんて嘘を吐いて、心配しているだろう、


でもね善いんだ、ぼくは今せかいで一番幸せなんだ、どうせぜんぶうやむやだけど



わたしはこの、ブルーブラックに視界が溶けるのを感じて、

迷子になってしまわない様に武士くんをつよく抱きしめた。

身体がすぐに冷たくなって、

震えてうまく力がはいらないけれど、


こたえるようにかき消す様にわたしをあいしてくれる武士くんが、つよく引き寄せた。




(どうせこうなると思った)
(きっとこうなれると思った)


(ぼん、音のお化けが弾けて消えた)
(ごめんね、来世でまた会おうよ、)

いえないまぼろし

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ