□少年Tの取り零した初恋
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あおいあおいあおい空に、短い両手を広げて
林檎はわらった/ぼくはそれをただ黙っ
てみていた/鈍い音と、金属の高い音が混ざ
って鳴った/ねえ河井くん、こんなふかい蒼
をしっている、/林檎は夢見心地のよ
うなふわふわした声でいった/しっています
、きみと視る空を/ぼくはできるだけことば
を寄り添わせた/このまちで、一番空に近い
場所で、ぼくらは遭難していた/否、彼女だ
けが、世界からあぶれていた、/まぎれもな
く、ぼくは彼女を好きだったんだけれど、/
ぼくには薄情なことに、まもりたいものがま
だあるから、/林檎の伸ばす手に気付か
ない振りをして/涼しい顔で、彼女に触れな
い距離で声に応じた/痛いのは、いやだなあ
、/林檎は唐突に、何にも怖くなさそう
に恍惚の中で涙声を発した/ぼくは、どうあ
がいてもこたえられない数式に敗けた/ただ
、だまっていた、/林檎がとつぜん振り
向いた/満面に笑みが咲いていた/ああすき
だと思った/でももう消えてしまう彼女を愛
せないと思った/わたしのことすき、/林檎は
出逢った日の様に軽薄に云った/ああ、その
日もこんな風に陳腐な快晴だった、/空がひ
どく蒼い/はい、せかいでいちばん、/ぼく
は化けの皮を剥がしながら丁寧にわらった/
ありがとう、/どうして謝りますか、/うれ
しかったから、/林檎は静かに華やいで
云った/それはよかったです、/ぼくも静か
におだやかに努めて云った/きみは、ぼくを
すきですか/英語の教科書のような第三文型
を駆使してぼくはやりとりにこたえた/林檎は
なにも云わなくなった/なんだか不意に、彼
女にも明日が来るような気がした林檎
はわらった/そうしてもういちど前を向いた
/鉄格子の向って正面は引き戸の形になって
いた/ぼくの10歩うしろには彼女の飲みか
けのネクターの紙パックが立っていた/
林檎が引き戸の太枠の取っ手に手をかけ
た/ぼくは黙っていた/それでもなんとかし
て引き留めようとこたえを探した/ぼくが何
とかがんばったら剣崎や高嶺くんや志那虎や
石松や菊さんや姉さんを泣かせないで済むの
かもしれない/だけどなんどもなんども考え
たのだ/考えた上であんな深い所には辿り着
けないのだ/静かに躊躇いなく林檎は一
歩ずつ踏み出していく/ぼくは歩きださない
/風の音は鳴らない/そして時間は止まらな
い/太陽は光るのを辞めない/アスファルト
は歪まない/この拳は運命を砕かない/彼女
が落ちて咲いた/この指は生きる喜びを彼女
に紡がない/この声はあいしたひとを救わな
い/この眼はその先を見詰めない/この耳は
かなしみを聴き入れない/この胸は彼女の代
りに止まれない/鉄格子は彼女のために曲が
らない/その結果がこれだ/ぼくは受け入れ
きった現実に絶望した




少年の取り零した初恋

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