昨日

□心臓に置き去った白いガーゼ
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「鬼道さん、」

廊下の端に視えた、紺色のスーツを半ば無意識に追いかける。
最初からここの人ではない人。だから奇跡が終わればもう二度と近くには来てくれない人。
だけれどわたしが幼いころからずっと願ってやまない人。


夢みたいな期待が弾けて、衝動的に走りだす。
聴こえていないのかその人は、速度を緩めることなく大人の歩調で音もなく進んでいく。


「鬼道さん!」
もう一度、それこそ廊下に響いたんじゃないかと思うほどの大声で叫ぶとようやくかすかな足音が停まる。


曲がった壁を押しのけて走り寄ると、夢にまで見た彼がそこにいた。
彼は機敏に、それでいて軽い動作の様に振り向いた。監督だった頃に常に持ち歩いていた分厚いクリアバックは今日は革の黒いちいさなスーツケースだ。

「金原か、元気そうで何よりだ」
あの頃と変わらない、まるで毎日のあいさつの様に微笑む。
相変わらずサングラスの奥は蛍光灯に反射して見えない。

「今日は何の御用でいらっしゃったんですか、グラウンドには来ないんですか」
つとめてただの部員らしく、でもすこし上ずった声で尋ねる。
「少し、円堂に用があってな。この後も用事があるからあまり長くは居られない」
眉をほんの少し下げて柔らかく言う彼に、じわりと独占欲が浸みる。

「あ、あの、」
それでもどうしても何か言いたくて口を開くと、急いでいるであろう鬼道さんがどうした、とやさしく肩に手を置く。

心臓の表面が痛い。
好きだ。この人が好きだ。
同級生にはない優しさも知性も頼もしさも、的確な計算ずくのかっこいいプレーも、彼を表わすように上品ですっとした名前の知らないメーカーの香水の匂いも、少し長いジャケットの裾も、いつも忙しく動いているこの右手も、その眼も、グラウンドで嘘みたいに綺麗に走るその脚も、わたしはこのサッカー部の誰よりもはやくから、誰よりもずっと、この人が好きなのだ。


「あの、これからはもうずっと、帝国に、戻ってしまわれるんですか」
絞り出す様に言った。だって当たり前のことだけれどそうしたらもうわたしでは会いには行けない。味方でもない。

「オフシーズンの間はそのつもりだ。だが俺も社会人だからな。そろそろ本職に戻らなくてはいけない」
何でもないことの様に、円堂監督に話すみたいに至極当然のことを言う。

「ご自分のチームに、戻られるんですね、また、」
わたしの声なんて一生届かない遠くに。

「そうなるな」
そういって腕時計をちらりと見る。
また胸がきっ、と締まる。

「あっ、すみません 急いでいらっしゃったのに」
泣きそうな声で、実際泣きたいのだけれど。

「いや、気にするな。それでは俺は行くが、練習、頑張れよ」
「はい!」


とうとう言えなかった。言いたかった。ちょっと不毛な関係だとしたって良いから。好きだって言って願わくばわたしも一緒に行きたかった。言わない方が無難だけれど、でも、これで良いの、言いたい、言いたい
さっきと同じ背中が、今度は扉に手をかける。
もう二度と会えない。



「鬼道さん!あの!!」


カフェモカみたいに甘苦いあの襟足を振って振り向いた。

「呼びとめてごめんなさい!」

わたしの足は一歩も動かないままだ。
スーツの背が出入り口特有の風圧で揺れる。


「好きです!!えっと、あの!!お気をつけて!!」


そう言って笑った所で涙が出てきて、頷いた彼の表情は何にも見えなかった。


「お前もな」



一瞬、想いが通じたのかと思ったけれどすぐに後の方の言葉に対してだと気付いて、頷きながらわたしはまた泣いた。



ひんやりした秋先の廊下から、扉の向うで彼の運転するメタリックグリーンのメルセデスのエンジンが聴こえて、永久のさよならを心臓に誓わせながら白い壁にしゃがみこんで、わたしは彼について知っている事を全部思い出しながら、もっと泣いた。




(さよなら、さよなら)
(あるべきところに世界は元通って)
(やっぱりさよなら)
心臓に置き去った白いガーゼ

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