昨日

□若きウェルテルに、安らかな眠りを
1ページ/1ページ

いつの間にかあんなに賑やかだった蝉の声は無くなって、すこし気の早い蟋蟀が夏の終わりを鳴いている。
あんまり四季の激しくないこの風の国でも、わたしがほんの少しずつ年をとっていく様に、時間は例外なく流れていくみたいだ。

丸い時計が右側に30度傾いた深夜の暗い寝室には、なけなしの月光だけが隣で眠る彼に射す。

愛している事をつつましく月が綺麗だなんて訳すこともあるけれど、本当はきっとこうやって月に照らされている彼こそが一番きれいなのだと思う。

眠る間もないほど壮絶な幼年期を経てきた彼にこんなにも安らかに眠れる日が来るとは誰も想像しなかったに違いない。
数年前の彼を思い返すと、彼の望んだここに来るまでの道のりが、それを望むまでの道のりがとてつもないもののように思える。

何かにすがる度に喪って、取り上げられた彼が、今、こんなにも多くの世界の幸せを願っている。
彼が一番欲しかったものは、もう信じることでしか手元に置いておくことができないけれど。

それでも彼は信じることで、だいきらいな孤独から救われる事ができた。捨てかけていた希望を再び自分のものにしたのだ。
そう、彼の愛はもう一人だけで背負うものじゃない。


視詰めているとすこし身じろぎした彼の額の決心に、やさしくキスを落としてわたしも眠りに就いた。



夢の中では、まだ幼い頃の彼であろう少年が同じ様に隣で眠ったまま、涙を流していた。
わたしが彼の綺麗な白い額に、同じ様に口づけて、頭を撫でると口元が和らいだ。




(大丈夫、あなたはもうすぐ、孤独から救われる)
(どうかもう少しだけ、希望を捨てないで)


若きウェルテルに、安らかな眠りを

(眩いあなたの前途が、晴れ渡る日まで)

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ