昨日

□蒸発する冬の雨
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「ごめん、、ごめんな、ほんとに、おれさ、」





わたしのとなりに座って、一生懸命、項垂れて謝り続ける平助くんをみつめていた。

綺麗に結いあげたひとつまとめの栗色はすこし乱れていて、いつもの緑色は濡れてしまって、所々が滲んでいる。

千鶴ちゃんかだれかが用意したであろう手拭いも、中途半端に利用されて、かれの手に握られているだけでぐしゃぐしゃになっている。




「いいのよ、平助くん、なんにもわるくなんてないんだから、」


視線だけを斜め上にもっていくと、かれはすこし眼を細めて、申し訳ないの顔をつよくした。



「そんなことない、ほんとうに、おれが、おれのせいで、」












平助くんが非番だということをなんとなく教えてくれて知ったのが今朝のこと。



わたしの今日のお仕事が朝のうちに終わるよ、と平助くんに云うと、つい先日にわたしが云っていた、ちょっとした隠れ家のお店のはなしになった。


じゃあわたしが、もう一刻くらいで帰ってくるから、いつもの甘味のお店の前を通るね、と云って、気が向いたらおいでという約束になった。


平助くんが、絶対に行く!と云ってくれたのでわたしは善い気になってしまったのだ。





計算通りに一刻弱で今日のやるべきお仕事は片付いて、わたしは待ち遠しく(勝手に決めた)約束の場所へ向かった。




(今日は空が白くて暗いなあ)


ふっと視ると今日の空はなだらかに灰色で、半泣きのときのかれの顔を思い出させた。





すぐに視えると思っていた平助くんのすがたは一向になくて、わたしは楽しそうな喧騒の中で一人さみしく甘味処のまえに突っ立っていなければならなかった。



ちらちらとお店の人がこっちを視る。

お客さんも不思議がってわたしを視る。




「あ、人を待っているので、ごめんなさい、大丈夫です、」




とってもせつない気分だった。








更に一刻ほど過ぎると、ちいさな粒ながら、雨が落ち始めた。



(さすがに、待っているのも大変だなあ、でも、)



かれは、もしかしたらなにかお仕事ができて、そのあとに来るのかもしれない、
そのときに、わたしがいなかったらきっとがっかりするはずだ、いや、そんなに落ち込まないかもしれないけど、


お客さんもすっかり居なくなってしまった甘味処は雨だからと戸を閉めてしまった。



通り雨ほど空は明るくないから、だれひとり周りにはいない。





(平助くん、まだかなあ)



そうしてひとり、雨と正午の鐘を聴いて待っていた。










暮六つの鐘が鳴って、まだわたしは独りぼっちなのかと気付いた頃には、もう空は昼間どころか真っ黒の雲を被った夜空だった。



(立ったまま寝ていたなんて、)




着物を視ると、別段お洒落着でもないのが救いだけれど、べったべたのずぶぬれで、絞らなくたって水がどろどろと滴り落ちてくるくらいだった。

全然寒がりじゃないわたしは、ひとから視えるほど寒くはなかったけれど、それでもなんだか雨に浸ったこの服やら身体が心許なくて、座り込んでしまった。






じゃっ、じゃりっ、と雨以外の足音が遠く、右の方からして、わたしはちょっと気持ちを取り戻した。



(さすがに、もう平助くんが来る訳ないけど、)




荒くなった息遣いがして、待ち望んだ高音の刺さる声がかすれて聴こえた。




「林檎、ごめ、ほんとにごめん!大丈夫、か、」



胸の奥がぎゅううううっと鳴る。


「え、平助く、」






という所でわたしは眠たさなのか何なのか、とりあえず眼を閉じてねむってしまったみたいだった。



何となく気を取り戻したのは揺れる背中の上で、かれのひどく急いだ呼吸の音と、華奢でしろい、男の子の腕のあつさだけを感じていた。













眼をしっかり開けると、ろうそくのあかるさにちょっと眼がくらむ。


真横にはしっかりとかれが座っている。





「あ、れ、へいす、け、くん、どうした、の、」



なんだか疲れているようできちんと余裕を持ってことばがつむぎだせない。



「林檎、ごめん、」


かれは微動だにせず、わたしを向いてなみだまで浮かべて謝まった。



「…?、」



「あのさ、おれさ、その、おまえがまさか本当にいてくれると思ってなくてさ、おれは、楽しみにはしてたんだけど、おまえ、忙しいかなって思ってさ、冗談だったのかなって思っててさ、」



「うん、」



「だからさ、おれ、ずっとここにいたんだ、おまえ、どうせ帰ってくると思って、」

「こんなさ、雨降ってんのに待ってる訳ないと思ってさ、でも、」


どんどんこえは高くかすれていく。


「新八っつぁんがさ、巡察のかえりに、昼過ぎにおまえ、視たってさっき、聴いたから、」


「うん、」


眼を伏せてすこしだけ俯く。


「嘘つけって云ったんだ、冗談かと思ったから、」

「でもほんとに、だめだよな、おれが、おれ、すっげえ、馬鹿だからさ、ほんとに、ごめんな、」

がばっと正面を向いてちょっとやさしい目になる。


「いいってば、わたしがなんにも考えてなかっただけで、」


「違う、おれはちゃんと、わかってるよ、おまえが、そうじゃないって、」


顔を真左に背けて、云いよどんで振り払った。



「おまえは、おれを、」




くるりと向き直ると、









かれのあかい、あつい、うすい、きれいなくちびるが降ってきた。








眼を開けるよりも近く、吊りあがったふたつの、かたくとじた眼があって、華奢なしろい、男の子の手はわたしの頭の横にあって、かれの若くうすい胸板はわたしと布何枚かを隔ててあつさの伝わる所にあって、かれが手を離してわたしの上に直る頃には、彼はもう笑顔だった。







「おれを、考えてくれてて、好き、でいてくれたってこと!」





全体的に吊った、するどいかたちのかれの、きれいな顔はうまく細められて、素敵に笑みをうつしていた。






「へ、すけ、く、」






わたしはことばの出ないまま、怒涛の展開を見せた一日を、夢にしたくないほど幸せに思った。









(この笑顔が視たいがためにわたしは生きてきたけれど、)
(わたしに向いたことでわたし、もう死ぬどころではなくなってしまったのね、)

蒸発する冬の雨


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