昨日

□撥水性のオピオイド
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「おれはさ、ちゃんと、おまえのそういうとこ、知ってるよ」




そんなに高くない所から、男の子の華奢な手がわたしのばかな頭を上からさわる。




「だけどね、わたしはばかなんだよ、だから、みんなみたいに大人じゃないの、だから駄目な子なの、」



云いながら、瞼は割れそうにあつくてぎゅううっとその奥がしぼられる。


かれはきっと、かれの中のいちばんにやさしい声のいろで尚も続けてくれる。





「だけどさ、おまえだって痛いだろ、おれはちゃんと気づいてるよ、」




だけれどかれの前ではかっこわるい所なんて見せてはいけないのだ。












わたしが、現実っていう動かないものから逃げ出したのは、ほんとうにずっと昔、

元々の素質もあったのかもしれないけれど、眠ったあとに視るあの夢の中にある世界を見出してから、の様だとわたしは自分で思っている。


わたしにとっての家族は、一緒に暮らしていたし、わたしをあいしてはくれているのかもしれないけれども、わたしを一人の子どもだという認識なんて無かった気がした。

いつも何かをちゃんとコントロールして、考えて、自分の論理だった正しい意見を持っていなくちゃいけなかった。

わたし自身、すこしおかしな環境にいたせいなのか、いつだって周りとは違う所から会話をしていたし、だれかの意見や気持ちに共感することなんてなかった。

嫌いなものばっかりで、友達だっていなかった。


それでも夢の中の世界はわたしを嫌いにならなかった。


わたしはつよい子で、だれかをすきになって、そうしたら怪我をして痛くたってしあわせだったのだ。




だからこんな、弱虫でじょうずに生きられない自分も世界も、視るのを辞めたのだ。








「おれだって悩むんだよ、おまえが何にも感じない訳、ないじゃないか」


間違いなく動いていて、楽しいことだってこのままじゃいられないし、嘘みたいに亡くしたものでさえ確実に帰っては来ないのだって言うときに、かれはそんな風にわらう。



「おまえは、現実を視ないんだって云うけどさ、でもさ、おまえ、人のことはちゃんと見てるじゃん、」


「ほんのすこしの悩みだって、おまえはすぐに背負いに来てくれるじゃないか、」


わたしを気遣って、眼を視ないで話してくれる。




「それなのにそんな、がんばってる分まで眼を逸らしてばっかいたらさ、」




わたしの肩に右手をのせていう、




「おまえが痛いことに、おまえが気付いてやれないじゃないか、」



眼を見開いたまま、わたしは斜め下を向いて硬直した。


「でもね、わたし傷付いてなんかいないの、みんなに比べたら全然、がんばっていないの、」




「そんなことは、だって、おまえが決めることじゃないだろ、」


有無を言わさないほどやさしくてつよい口調でいう。




「現におまえは、こんなに傷付いて、意味判んなくなるくらい悩んで、眠れなくなるくらい怖かったんだ、」


伏し目がちのおおきな眼でわたしをちゃんと見透かしながら云う。

とめどなくわたしの瞼を、内側から刃が襲う。




「だからいいよ、おまえが泣くくらいおれはぜんぜん駄目だって思わない」


瞼に蓋をした。

今度こそは耐えきれないかもしれない。




「おまえさ、いつもだれかが喜ぶように、泣かない様に、って考えてばっかで、自分がどうなるとか、一番さいごじゃないか、」




左肩に置かれた右手に力がこもる。






「だからさ、おまえ、わらうばっかじゃなくてちゃんと泣いたり怒ったりしろよ、おまえが苦しいと、おれがつらいよ、」




「へ、すけくん、が、つらい、の、」


「そうだよ、おれはおまえをちゃんと好きだから、」



ふっと短くわらうように息を吐いて云う。



「おまえが、林檎が、つらいときは同じ様におれもつらい気持ちで善いよ、」




「、ごめんね、」




さいごは音にならないで呼吸音が云った。





「…すきだよ、」

平助くんが大事に、すこし小さな声で云った。











(みたくなかったの、気付いてしまうから、)
(ずたずたになっていると知った瞬間に痛むから、)
(あなたの前ですこしでも多く笑って居たかったのよ、)


撥水性のオピオイド









オピオイドっていうのは体内から分泌される、痛みを引き起こす機序を阻害する物質のことで、モルヒネとかそんな感じの物質です。


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