さよならを云えなくて善かった、

□思いだしても夢みたいな現実、
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だって、もしもお父さんがかなしい事件に遭って、あんなふうにせつない気持ちになることがなかったら、もしかしたらわたしはいま、こんな後ろめたい気持ちでだれかを見たり、羨ましくってごめんなさいなんて、鬼道くんに思ったりなんて、しなかったの、うらやむことなんてないくらい、たのしかったの、きっとそうなんだ、全部、ぜんぶあのせい、あのせいで、







鏡を向いて、髪を巻きながら、善い匂いをさせてお母さんがさらっとお使いのメニューでも発表するみたいに言う。



「明王、今日はちゃんとコーチに云ってきたの、辞めるって、」


サッカーの練習から帰ってきたお兄ちゃんが第一声にぷいっと右を向く。
涙目なのは、お母さんはこっちをみていないから知らない。


「いってない」



「もう、はやく云いなさい、あんたからちゃんと云わないと、もうすぐ今月終わっちゃうのよ、」

サッカーするのもタダじゃないんだから、もうそろそろ判ってよね、ウチの状況も、



かるくため息を吐いて、諭すみたいな厳しい声が返ってきた。

…だったらお母さんが云いに行ったらいいのに。



わたしは自分のランドセルをひらいて一番上の計算ドリルに出逢いながら、お兄ちゃんの後ろ姿をじっと見ていた。


ぱちん、アイシャドウをとじる音がして、ああお母さんが出掛けてしまうなあと思いながら、痛いくらいお兄ちゃんの気持ちを汲んだわたしは胸を痛めた。

やめたくないんだろうなあ、




わたしは、お兄ちゃんが意地悪で、きかない人だけれど、本当はやさしいし、サッカーは本当に大好きで、そこに関しては頭だって善いし上手だし楽しそうだし向いてるんだなあと思っていた。

お父さんが、大体毎晩わたしたちを怒りに来る大人の人たちに、わたしたちを守るために苦しい言い訳をして、すみませんって、申し訳ございませんって、しゃがんで頭を下げるのだって視ていて、ああ大変なことなんだなあというのも視ていた。

お母さんが、毎月の様に宅急便でご褒美の様に買っていた服が、ここ最近は来ないなあなんてのも、思っていたし、

学年費だとか何かの、封筒を3カ月連続で渡されたのも、あれ?ってちゃんと気づいていた。

お兄ちゃんと3人で買い物に行って、たまにはって新しい服を買ってくれるのも無くなったとちょっと残念に思ったりもしていた。



真夜中に、ちょうど3週間前くらい(1ヶ月はたぶん経っていない)の、たぶん夜(夕方だったかどうかも憶えていない)に、お母さんとお父さんが喧嘩しているのを、わたしたちの寝ている(はずの)ふすまのそとの、部屋の、そのもうひとつふすまを閉じた外でわあわあ云い合っているのを、聴いて初めて、



「なんでよ、なんであんたがこんなの背負わなきゃならないのよ!甲斐性がないからでしょう!?いつまでもいつまでもこんな、下っ端だから!!」


「お前は何も判っていない!俺が好き好んでこの立場にいる訳じゃない!お前だって俺がだらだらと仕事をしてきた訳じゃないのは知っているだろう!!」

「だから何!?今まで頑張ってきたから今回こんな風に、生活をめちゃくちゃにされてもアタシは文句を云っちゃだめって!?馬鹿じゃないの!!生活やっていけないわよ!!?」

「そんなことは云っていないだろう!!子供たちのことは何とかする!お前がいてくれれば、協力してくれればきっと!!」

「何が大丈夫って!!?アタシ、あのときどんな気持ちになったかあんたは全然判ってないわ!!明王と林檎は!?あの子たちを殺すつもり!?」

「俺が何とかする!あいつらには苦労をさせない!!もちろんお前にも!!」

「馬鹿云わないで!こんなの実家にも云えないじゃない!!どうにもならないわよ、馬鹿!!あんたなんか離婚よ!!」





わあわあと泣き声で喚きあうだいすきな二人の声を聴きながら、その日お父さんが帰って来てからのふたりの雰囲気から察して、ただごとじゃないと、ふたり色々考えた記憶がある。

だってあの夜は、お夕飯でさえ追い出されて子供部屋で、二人で、

ああ、夜だったのだ。


たびたび、喧嘩をすることが増えたけれどあんなふうに、行き詰って泣き喚きあうのははじめてだった。
小学生といえど案外成熟した風な考えをしていたわたしたちは、何かあったらふたりで暮らそうねなんて、夢みたいなたのしいのか大変なんだか判らない空想をして一瞬ずつつかの間の拠り所にしていた。



がちゃああん!

ダイニングを、勢いよく叩く音がして、そのあとに鈍くてかっこ悪い、お母さんの拳の音がした。


わたしたちはびっくりして、お兄ちゃんがばっと立ち上って、駆け付けたら二人は取っ組み合っていて、お母さんがお父さんの首に手をかけて、お父さんがお母さんの襟をねじあげている所だった。



二人はわたしたちを無視して、涙目でにらみ合っていた。




もうおしまいだって、思った。




朝起きて、お父さんのお布団はもうなくって、その日から帰ってこなくなった。



だれも聴かなかったけれど、ちゃんとふかく傷付いていた。






「っふぅ……んぐ……あぁあ、んうぁあ……」

お兄ちゃんは今日、泣く泣くサッカークラブのコーチを振り払って、辞めると云ってきたらしい。



わたしがクラブの練習するグラウンドを避けて通って帰ると、お兄ちゃんは部屋の隅っこで声を漏らして泣いていた。


あああああ、なんて残念なこと。
なんてかわいそうに、

わたしもちょっと泣いた。



お母さんは帰ってくると、いつもみたいにお化粧をしながら質問をして、


「そう、ごめんね、偉いわ、本当にごめんね、」



お兄ちゃんの顔を視ないで声を震わせて云った。



わたしは、お母さんも謝るんだなあなんて思いながら、明日行く、お友達の家のキャンプに想いを馳せた。
特別に、と許可してくれたのが嬉しくて、それと、お母さんのお友達で、ちょっと理解があったから、っていうので。




2泊で3日あと、わたしが家の鍵をあけると、







だあれもいなくなっていた。



「……………ただいま、………………?」



(おわりなのかはじまりなのか、)
(とりかえしのつかない様な、びっくりの予感と深くて狭い)
(絶望)


思いだしても夢みたいな現実、

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